· 

敗戦直前の731部隊配送示す公式資料

滋賀医科大学名誉教授らが発掘

闇に消えた731探る新たな手掛かり

 

1945年(昭和20)8月9日未明のソ連軍の旧満州電撃侵攻で、旧満蒙一帯にいた関

東軍や開拓民はほぼ全域でパニックになり、高速で進撃するソ連軍の前に、民間人中

心に多くの犠牲者が出た。そんな中、ほぼ無傷で日本(当時の用語で「内地」)に逃

げ帰った部隊がある。悪名高き「731部隊」(正式には関東軍防疫給水部)だ。731部

隊の敗戦時の情報を戦後間もなく国の手でまとめていた資料を、滋賀医科大学の西山

勝夫名誉教授らがこのほど発掘、手書きの文字などを復刻して公表した。731部隊

員の最終的な人員数や敗戦時の行動、敗戦時の行動経過図などが公的に明らかになっ

たのは初めて。戦後処理の中で、米政府から免責特権を受け、闇に消えた731部隊

を探る、新たな手掛かりとなりそうだ。

▽敗戦時の隊員数は3262人

西山名誉教授と2000年に発足した「15年戦争と日本の医学医療研究会」(戦医研)

幹事の原文夫さんが発掘した資料は「関東軍防疫給水部部隊概況」(関防給概況・昭

和26年=1951年6月1日付)といい、原本は手書きの見出しに「第四調査室」とある

だけ。西山名誉教授は、この調査室名は厚生省援護局の他資料には見当たらず、どの

ような部署かは不明という。

長らく厚生労働省の資料庫の中で眠っていたが、2010年からの「戦没者等援護関係

資料の国立公文書館への移管」の一環として2017年度に国立公文書館に移されたのを

、目録で発見。当時から利用請求していたが、今年2月に公開決定通知され、コピーを

入手。判読できるように復刻して公表した。

復刻とともに、関防給概況を分析した西山名誉教授によると、中に収められている

関東軍防疫給水部部隊人員統計表(昭和26年、留守業務部第三課作成)から731部隊

の敗戦時の隊員数は総計3262人(本部2149人、林口支部265人、牡丹江支部221人、

孫呉支部187人、ハイラル支部165人、大連支部215人、所属不明60人)となっており

、初めて根拠のある公式の敗戦時部隊員数といえる。これまでは、2012年に野田佳彦

内閣が答弁書で示した「厚労省で保管する関東軍防疫給水部に係わる留守名簿におけ

る人員の総数は3560人」というのが公式見解となっていた。

▽8月16日に復員完了と記載

関防給概況では敗戦時の部隊の退却の様子が公式に明記されていた。内容は以下の

通りである。

防給本部は開戦(注、8月9日のソ連の満州侵攻)と共に本部は3ヶ列車(内1列

車は家族)によって20年8月13日ハルビン出発通化北群方面に移動中であったが

、途中新京付近で終戦となったので、部隊はそのまま釜山まで直行して乗船。20

年8月16日仙崎に上陸、復員を完了した(注、カッコ書きで「八月中復員完了」

との記載も)。

主力ハルピン出発時左記人員は残留して部隊整理をしたが、この人員は自動車に

より本体追及中20年9月1日双城堡において武装解除され、11月5日新京におい

て作業四大隊に編入せられ11月16日チエレンホーボ収(収容所)に送られている

。鈴木准尉以下17名(内4名はソ軍収容前逃亡している)

 

つまり日本がポツダム宣言を受諾し、実質的に武装祭除した翌日には、途中で服毒

自殺した隊員らを除く731部隊の大半がいち早く戦後引き上げ港となった山口県の

仙崎港に帰還していたというのである。

731部隊のほぼ全員が、在満の大多数の軍民が状況を認識できる前に、施設を破

壊して、脱出していたという記述はこれまでもあった。最も詳しい記述が森村誠一氏

の『悪魔の飽食』であるが、簡単にまとめられているものに次のような記述がある。

19451年8月15日の日本の敗戦前に、当時の日本政府と軍は国際的な非難を恐れ

、「国体護持」のため、731部隊の隠滅を工作した。関東軍司令官(参謀本部作戦

課主任)朝枝繁春の石井部隊長への指示により、敗戦直前の1945年8月10日、731

部隊設備は爆弾で破壊され、収容されていた「マルタ」全員が殺害され、ほとんど

の職位や資料は焼却され、全部隊員および家族に脱出命令が下された。脱出に際し

て、石井は部隊員とその家族に「部隊の事実は墓場まで持っていけ、もし口外する

者がいたら草の根を分けてでも探し出す」と箝口令を敷き、互いの連絡や公職に就

くことを禁じた。

西山勝夫編著『戦争と医学』(文理閣)129ページ「731部隊の証拠の隠滅

〜「マルタ」の絶滅、隊員と家族の脱出」

ハルビン市中心部から南約20キロの平房(ピンファン)に置かれた731部隊の本

部は特別軍事地域とされ、ハルピンからの特別列車の引き込み線が、「マルタ」と称

した捕虜に対する生体実験などで悪名高い「ロ号棟」近くまで伸びていた。関防給概

況では配送する部隊員と家族を乗せた貨車の数を「三ヶ列車(内一列車は家族)」と

しているだけだが、何両編成の列車だったのか不明で、これだけでは2500〜3000人と

される人員の輸送に必要な車両数は分からない。これに対して『悪魔の飽食』(新編

文庫版287〜289ページ)では「潰走する731部隊員と家族を乗せた専用列車は、8月11

日から15日にかけて15本(1本20両編成)を数えたという」と記載され、内地への帰

還も18日から25日前後と記載しており、関防給概況と異なっている。この辺りは今後

の研究が待たれる。

▽「特殊重要任務」に「科学部隊」との記載も

関防給概況の中の、留守業務部第三課まとめの「特異事項」では「特殊重要任務に

服した科学部隊である構成員たる下士官以下は原則的に壮年以下の者であり老年は含

まれない」との異質な記述がある。しかし、前後の脈絡なく記載された「特殊重要任

務」や「科学部隊」の詳細はない。西山名誉教授らは「『細部調査表』の記載内容か

ら個票などの典拠が存在し、そこには『特殊重要任務』について収集された具体的内

容の記載があると推察される」とみて、個票の探索などを進めるとしている。

一方、各地の支部からはソ連軍侵攻とともに「独断専行」で敗走を図ったが、その

一例が「行動群経路要図」として黒鉛筆と赤青の色鉛筆で図示され、概況に収められ

ている。ただ概況には肝心のハルピンの本部や大連支部の「行動経過要図」「行動群

説明表」「行動群系統表」「細部調査票」が含まれていない。

西山名誉教授らは、「本冊であるべき本部分が別冊ないし別刷り扱いか何らかの落

丁(意図的な抜き取りや隠ぺいを含む)があったのではないか」とみており、昨年発

 

足した「留守名簿研究会」などと協力して、今後も保管されている資料の発掘に努め

るという。

▽18年には「留守名簿」を発掘

西山名誉教授らは2014年、国立公文書館に陸軍が作成した『留守名簿 関東軍防疫

給水部』が保管されているのを発見した。留守名簿とは戦地や外地にある部隊に属す

る陸軍軍人・軍属に関する記録であり、家族らへの恩給、年金その他の支給の掌握に

使用されたもので、軍への編入年月日、前所属および編入年月日、本籍、留守担当者

の住所・続柄・氏名、任官年、給級俸などが記載されている(海軍では同様に「履歴

原表」との名前で名簿を作成)。

留守名簿は敗戦後、陸軍から第一復員省留守部隊部に引き継がれ、復員省の廃止後

は厚生省に、さらに組織の改編で厚労省社会・援護局の扱いとなっている。2010年の

国立公文書館への移管で、同館に保管されている。西山氏らは数年にわたる折衝で

、2018年名簿の原簿を入手。「15年戦争陸軍留守名簿資料集」の一環として同年関東

軍防疫給水部の名簿を不二出版から発刊している。

今回発掘された関防給概況は留守名簿では明らかにならなかった隊員の細部所属が

明記されており、留守名簿と照合することで、当時の731部隊の状況をより詳しく分

析できるとみている。

▽許されぬ731へのあいまい姿勢

連合軍の占領下にあった日本は米国との単独講和に踏み切り、1951年9月8日サン

フランシスコでの講和会議でサンフランシスコ平和条約に調印。米国との間で日米安

全保障条約を結ぶと共に、翌52年4月28日の条約発効を持って主権を回復した。

一方、日本の戦争犯罪を指弾した東京裁判は終戦翌年の1946年(昭和21)5月3日

から48年(昭和23)11月12日まで開廷され、東條英機元首相ら7人が死刑判決を受け

た。この裁判は連合国軍派遣の戦勝国による裁判だったが、東京裁判が始まる前に米

軍は石井四郎元731部隊長や内藤良一元軍医(戦後、薬害エイズで問題となったか「

ミドリ十字」を設立)らと秘密裏に面談し、細菌戦の全データや情報を受け取る代わ

りに戦争犯罪を免罪、東京裁判でもソ連の検察官に対して情報提供を拒否している。

また日本政府も1950年(昭和25)以来の国会答弁などで、一貫して「731部隊の存

在を確認できない」という姿勢を続けている。最近では野田政権時代の2012年(平成

24)、当時の玄葉光一郎外相が「政府内部に資料が見当たらないというのが実態でご

ざいます」と答弁している。

しかし西山名誉教授らの追跡で、日本政府は占領下にあった1950年代初めの第一復

員省時代から留守名簿や今回発掘された概況などの公文書を作成しており、厚生省、

厚労省へと受け継がれてきたことが明らかになった。政府と同様、戦後一貫して731

部隊にあいまいな態度をとり続けている日本医学会を含めて、戦後75年の節目に反省

すべきではないか。