「街を歩けば」 数奇な運命をたどった閻魔様の梵鐘       後楽園近くの寺で見つけた「汎太平洋の鐘」

 地下鉄丸ノ内線、南北線、大江戸線の後楽園駅や都営三田線春日駅から、わずかの距離にある寺で「汎太平洋の鐘」と書かれた梵鐘に出会った。寺の名前は常光山源覚寺。近隣の人には「こんにゃくゑ(え)んま様」の寺として有名だが、閻魔様にお参りして戻る途中見つけた掲示板に書かれていたのが、汎太平洋という言葉だ。

 鐘自体はそう珍しいものではなさそうだが、掲示板を読むと由来が普通ではない。

「1937年(昭和12)サイパン島南洋寺に転出、南太平洋にひびきわたる」

「1944年(昭和19)サイパン島軍民玉砕して以降消息不明となる」

「1965年(昭和40)米国テキサス州オデッサ市において発見される」

「1974年(昭和49)カリフォルニア州オークランド市居住クレヤー氏によってサンフランシスコさくら祭りに展示され、その後当山に寄贈される」

 この経緯だけでもすごい。江戸時代に造られた梵鐘が昭和に入ってサイパン島に渡り、サイパン島の大激戦の後、米軍兵士に「戦利品」として持ち出されていたというだけでもショッキングだが、米国内でもテキサスからカリフォルニアに移動していた。売りにでも出されていたのだろうか

 

▽鐘楼焼失から1世紀後の響き

 満州事変から太平洋戦争に続く15年戦争で、物資の乏しくなった日本では国家総動員法(1938年=昭和13)の制定とともに、1941年(昭和16)年8月「金属類回収令」を発令。多くの寺社から梵鐘や金属類を供出させたが、上記の件だけを読むと、源覚寺の鐘は供出後、武器などに変えられずサイパン島で鳴り響いたのかと思ったのだが、違った。

 寺でもらった「由来」を読むと、江戸時代から数奇な運命に見舞われている。梵鐘は1690年(元禄3)和歌山の粉河丹後守の鋳造により源覚寺に奉納されたが、鐘は昭和までそのまま鳴り響いていたのではない。154年後の1844年(天保15)4月5日夜半の「もらい火」で鐘楼を焼失。鐘は溶けなかったが、鐘楼を建て替えることができなかったのか、サイパン島の南洋寺に奉納されるまで93年間安置されたままになっていたという。そう聞くと1世紀後に「南太平洋に響き渡る」という記述に込めた思いが伝わってくる。

  一説によると江戸時代は3年に1回程度の割合で大火が発生したという。江戸中期には世界最大の人口(最盛期100万人超)を有する都市になっていたが、庶民の居住する下町は小さな木造住宅が密集しており、強風にあおられたらあっという間に類焼してしまう状態だった。江戸時代の3大大火として有名なのは1657年(明暦3年)の明暦大火(いわゆる振袖火事)、1772年(明和9年)の目黒行人坂大火、1806年(文化3年)の丙寅大火だが、源覚寺が作成しているインターネットの寺社紹介記事では1624年(寛永元年)開創された寺は、3つの大火では被害がなかったという。一方、天保15年の火事の規模についての記述はない。本堂などは焼失していないらしいので、鐘楼ぐらいのもらい火だったのかもしれない。幕末の混乱期であり、近隣の檀家衆から浄財を集められなかったのだろう。明治に入ってからは「廃仏毀釈」なる運動も起きていた。明治、大正それに昭和の初めまで鳴ることはなかったのだ。

 

▽仏教開教の命で海を渡った住職

一方、梵鐘の奉納を受けたサイパン島の南洋寺。この由来も興味深い。

そもそも日本がサイパン島など南洋群島を支配下に置いたのは第一次世界大戦によってである。南洋群島はスペイン領、続いてドイツ領となっていたが、1914年(大正3)8月、第一次世界大戦勃発とともに日本軍が侵攻。戦艦「香取」が南洋群島に入り、10月14日サイパン島を占領。1920年に国際連盟から信託統治を認められると、南洋庁を設置して行政や警務を行うなど実質植民地として「日本化」を進めた。

日本はサイパン島など南洋群島を支配下に置くことで、太平洋に巨大な勢力圏を築き一級の帝国主義国の位置を獲得した。このため日本は1933年(昭和8)に国際連盟を脱退して「信託統治」の権限を失った後も植民地として支配を続けることになる。

南洋寺が開創されたのは、こうした状況下であった。建立したのは文京区にある潮泉寺住職、青柳貴孝氏とのこと。青柳住職は1932年(昭和7)浄土宗の管長から南洋群島での開教の命を受け、サイパン島に渡り南洋寺を建立。さらに他の南洋群島でも布教に努めるとともに、サイパン家政女学校(その後、サイパン高等女学校)を設立したという。

現在も潮泉寺は駒込に残っている。どういうきっかけで、南洋寺に梵鐘が渡ることになったのか不明だが、源覚寺と潮泉寺はともに文京区内にある浄土宗の寺院であり、鐘の話はよく知られていたのではないだろうか。

南洋寺と青柳住職との関係を調べた、というより青柳貴孝という人物を発掘したのはミュージシャンで作家の寺尾紗穂さんという女性だそうだ(「南洋と私」リトル・モア刊)。寺尾さんは「南洋は親日家」とひとくくりで語られることに疑問を持ち、現地や南洋からの引き揚げ者らを取材して肉声を聞いた。その中で青柳住職についても消息を辿ったという。

 青柳住職は南洋寺を開いて仏教を教えるとともに、当時は多くの日本人が島民を「土人」と蔑み、さらには婦女子に学問はいらないという風潮の中で女学校を開設するなど、「日本帝国臣民」の範ちゅうを超えた活動をしていた。戦後は多くの引き揚げ者らと一緒に八丈島に渡って開墾に従事。晩年には横浜で易占いをして生計を立てていたらしい。

 

▽サイパン「玉砕」で鐘は米国に

第2次世界大戦・太平洋戦争が激しくなるとともに、大本営は1943年(昭和18)「絶対国防圏」を策定し、軍備の増強を図ったが既に太平洋の制海権、制空権は米軍に握られており、1944年(昭和19)6月の米軍による空爆を皮切りに米軍との戦闘が激化。6月15日には米軍が上陸、追い詰められた日本軍は7月7日3千人の兵士が「万歳突撃」を行って玉砕した。

さらに多数の民間人は「生きて虜囚となるなかれ」との南雲忠一・中部太平洋艦隊司令長官の軍命に従って、北部マッピ岬から投身自殺した。岬はその後バンザイ・クリフ、スーサイド・クリフといわれるようになった。サイパン島の中心ガラパン町の最盛期の人口は1万2700人余だったが、戦争末期もなお2万人前後の日本人民間人が残存していた。マッピ岬から投身したのは、そのうちの8千〜1万2千人ともいわれている。。

激戦の跡はいまではサイパン島の一部に残っているだけらしいが、島中心部のフィエスタリゾート&スパホテルの正面左側には「浄土宗 多宝寺南洋寺」と書かれた石碑が今も残っているという。ここが南洋寺とサイパン高等女学校があった辺りらしい。一方、源覚寺には1975年(昭和50)南洋群島物故者慰霊碑が建立され、今も物故者遺族が遙拝しているそうだ。

しかし、物故者の中に現地の人たちは含まれているのだろうか。南洋寺や高等女学校は跡形もなくなっている。もともと、ほとんどがカトリック教徒であった群島民に対して、日本の政治的支配で仏教は普及したのだろうか。多くの島民が仏教に帰依していれば、米軍兵士が「戦争土産」として鐘を持ち帰ろうとした時に反対する声が起きたかもしれない。

源覚寺のパンフは「鐘ははるばる海を渡ってこの寺(南洋寺)に運ばれ、『さんご礁』や『やしの木』の美しい南の島を住みかとすることになりました」と書いているが、「南洋の空に響き渡った」と思っていたのは、日本人だけだったような気がする。

 

▽鐘に残る弾痕の跡

 米国に渡った鐘の変遷はほとんど分かっていない。「由来」に従えば、1965年(昭和40)8月、テキサス州オデッサ市の金属商の所有となっていることが「ミツエ・へスター」という夫人の通報でかったというのが、戦後の最初の情報だったという。

 その後、1973年(昭和48)10月にはカリフォルニア州オークランド市に住むドナルド・クレヤー氏の基にあることが判明。「数々の困難な交渉」があったようだが、翌74年(昭和49)4月に開催されたサンフランシスコさくら祭り開催を機に、クレヤー氏との間で返還式を行い、7月5日横浜港に到着。10月16日「汎太平洋の鐘・復山」と命名大法要が行われ、今日に至っている。鐘にはサイパンでの戦闘で受けた弾痕も残っているという。

源覚寺はもともと「汎太平洋の鐘」ではなく、「こんにゃくえんま」の寺として信仰を集めてきた。寺のある交差点の名前も「こんにゃくえんま前」。閻魔堂には閻魔王の座像が安置されており文京区の指定有形文化財になっている。由来は、1751年から64年の宝暦年代のころ、眼病を患った老婆が閻魔大王に21日間の祈願を行ったところ、夢の中に現れた閻魔大王が「願掛けの満願成就の際には、私の両目のうち1つを差し上げよう」と述べ、事実満願の日に老婆の目は治った。このため大王の右目は盲目となったが、以来源覚寺のこんにゃくえんまは眼病に効くとして知られ、夏目漱石の「こころ」や樋口一葉の「にごりえ」にも登場している。ただ漱石も一葉も鐘の音は聞けなかった。

 

また境内には「塩地蔵尊」があるが、源覚寺開創前から当地にあったという。地蔵尊の身体に塩を盛って、参詣者の身体健康を祈願してお参りしてきたため、地蔵の姿は今では全く分からないほどだ。