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蘇った戦争遺産

蘇った戦争遺産

東洋一」と言われた旧軍事工場跡に平和公園

豊川市でこのほど開園した旧豊川海軍工廠跡

 戦前、機銃の生産では日本最大規模で「東洋一の兵器工場」といわれた施設があった。戦争末期の米軍による大空爆で工場は壊滅的に破壊され、2500人を超すといわれる犠牲者を出した旧豊川海軍工廠だ。広大な敷地は戦後、分割して売却され、大半が民間の工場となっていたため、一般市民が中を見ることは難しく、状態はあまり知られていなかった。しかし豊川市民らの熱意が実り、このほど豊川市が一部を買収。今年6月9日、豊川海軍工廠平和公園として開園。早速、現地を見に行った。

▽旧火薬庫と信管置場を展示

 豊川市といえば豊川稲荷があまりにも有名だが、旧海軍工廠は稲荷からそう遠くない穂ノ原という地区にある。拡張される前の工廠立地時点で約200ヘクタールあった広大な敷地は現在、陸上自衛隊豊川駐屯地や日本車輌製造豊川製作所、名古屋大太陽地球環境研究所豊川分室などが立地しているが、平和公園は名大の敷地の一部だったところ。

 新たに豊川市平和交流館が建てられ、かつての軍事工場や、空爆の様子を映した写真パネルや、当時の関係者の証言などが飾られている。公園内でほぼ当時のまま展示されているのは旧第一火薬庫と旧第三信管置場。米軍が投下した爆弾の着弾跡や、防空壕跡もそのまま展示されている。

 特徴は、史跡の保存と旧工廠の実態を学んでもらうため、地元市民による「豊川海軍工廠語り継ぎボランティア」によるガイドツアーでのみ、旧施設の中を見て回ることができる仕組みだ。

 ガイドに従って旧施設を見て回る。最初は旧火薬庫。コンクリートで造られた建物に土を盛っている。火薬の温度と湿度を一定にするためで、屋上には換気筒も見える。また平屋造りの屋内は3つの部屋に別れているが、いずれもコンクリートの壁と中の板壁の間に空気が通る層を設けて、換気塔と下部の通気口によって空気を循環させる工夫が見える。

 こうした火薬庫は各地にあったはずで、神奈川県逗子市の池田弾薬庫(現在、大半が米軍施設)も外から見ると、同じような土を盛った建物がいくつか確認される。同じような構造をしているのだろう。

 次に信管置場。小さなコンクリートのトンネルを抜けて入る。これは土塁の門。信管置場自体はコンクリート造りの平屋建て。側壁はコンクリート製だが、天井と屋根は木造。爆発事故が起きたときに、エネルギーを天井方向に向けて解放させるのが目的。周囲を土塁で囲んでいるのも、被害を遠くまで拡大させないためという。

 公開された施設の中には防空壕と書かれた直径10メートル程度の穴というより窪みのようなものもあった。特徴的なのは、天井がないことだ。こんな「窪み」に寄り添って姿勢を低くして、身を守ることができたのだろうか。第2次大戦末期の異常ぶりが浮かび上がってくる。

▽強制動員された4万6000人

 旧豊川海軍工廠は昭和14年(1939)12月、旧豊川町、牛久保町、八幡村の約200ヘクタールの敷地に完成した。明治36年(1903)開庁した横須賀海軍工廠はじめ全国で14カ所造られた海軍工廠の中で6番目に古い。豊川では主に機銃、弾丸、艦船で使用する距離儀、双眼鏡、射撃装置などを生産。機銃の生産に関しては日本最大の規模で、東洋一の兵器工場といわれた。工場の規模拡大で人口が増加。昭和18年(1943)には豊川市が誕生した。豊川市は豊川稲荷の寺町として発展したのではなく、軍事工場の城下町だったのだ。

工廠には最盛期で約5万6700人が働いていたとされる。そのうち4万人が「徴用工員」と呼ばれる徴用工、女子挺身隊、朝鮮人徴用工ら。また約6000人が「学徒動員」と言われる中学生、女学生ら。つまり4万6000人は強制的に動員された工員だった。(以上の、数字は各資料で異なっているが、豊川市などは八七会発行「豊川海軍工廠の記録 陸に沈んだ兵器工場」のデータを採用)。学徒動員された中学生や女学生の多くが近隣の市町村からきていた。

▽30分弱の集中猛爆

この東洋一の兵器工場が悲劇に見舞われたのは昭和20年(1945)8月7日。サイパン、テニアン、グアムから飛来した米軍B29爆撃機124機、P51戦闘機45機による集中空爆で3256発もの500ポンド爆弾が投下された。午前10時13分からわずか26分間の出来事だった。工廠は破滅的な被害を受け、2500人以上が死亡、1万人を超す負傷者を出した。ただ正確な死傷者の数は未だに分かっていない、という。

豊川工廠は一時、広島、長崎などと並んで原爆投下候補地にもあげられたというが、爆弾の雨が集中して、機銃製造や光学機器を製造していた南部の機械工場に降り注ぎ、多くの徴用工が犠牲となった。2500人を超す死者に加え負傷者は1万人を超したといわれている。家内の親戚も空爆で負傷した。

 この豊川工廠空爆があったのは昭和20年8月7日。前日の6日には広島に原爆が歴史上初めて投下され、工廠空爆の2日後の9日には長崎で再び原爆が投下された。いずれも連合国がポツダム宣言を発表して日本に降伏を求めた7月26日から、8月15日の受諾決定、終戦までの出来事である。20年8月15日に至るまで、日本には戦争を止める選択肢がいくつもあった。無為に過ごした結果、8月初めの集中的な被害を生んだのではないか。平和公園とは別に、豊川稲荷の境内から一歩出たところに豊川海軍工廠戦没者供養塔が建ち、判明している犠牲者の名が刻まれている。