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中華民国総統府の興味深い展示(上)

日本で学び、二二八事件で犠牲になった陳澄波画伯

虐殺された、「日本語を話す」文化人

総統府1階に名誉回復の展示コーナー

台湾に旅行し、台北で中華民国総統府(日本統治時代の台湾省総督府)を見学した。総統府の近くにある「中山堂」(戦前の台北市公会堂)とともに台湾に残る日本統治時代の「植民地建築」(西澤康彦『植民地建築紀行〜満州・朝鮮・台湾』)とされているのに興味を持ったためだったが、総統府の中で興味深い展示を見つけた。

一般に出回っている日本のガイドブックには詳しく出ていないが、総統府は現在、平日は1階部分のみ、土曜日は2、3階部分も見学できる。平日だったため、その1階だけの見学だったが、政府機関の展示物の中に興味をそそられる展示を見つけた。

一つが1947年に起きた「二二八事件」で国民党軍政部に処刑された陳澄波画伯のコーナーであり、もう一つは2013年に起きた台湾第4原発反対デモの写真だった。

▽日本に留学、故郷で市会議員に

二二八事件は台湾を長年に渡って支配してきた蒋介石政権の恥部といえ、台湾の民主化まで40年近く、語ることはタブーとなっていたという。民主化後も国民党は2大政党の最強力政党として残存しており、長期に渡って名前を出すのもタブーとされてきた事件の犠牲者をコーナーまで設けて展示していると率直な感想を抱いた。

 ネットなどに掲載されている陳澄波の略歴をみると、1895年に台湾中部の町、嘉義市で生まれた。1924年に29歳で東京美術学校(現・東京芸術大)図画師範科に留学。油画を専門に学び、作品は帝展にも入選した。卒業後は上海に渡り、新華芸術専科学校の教授などを務め、33年に台湾に戻った。故郷の嘉義市で教職を務めながら創作活動を進め、近隣の阿里山などの風景を描き、高い評価を受けていた。

 陳は上海から戻った嘉義市でも市民の評価が高く、1945年に日本が降伏し、台湾が中華民国に返還された時代に嘉義市の「中華民国政府歓迎委員会」委員や嘉義市議会議員を務めていた。そこに1947年「二二八事件」が起こる。2月28日台北から始まった、国民党軍政府に反発するデモはたちまち全島に広がり、嘉義市でも騒乱状態となった。このため陳氏らは嘉義市の「二二八事件処理委員会」を代表して他のメンバーと国民党軍との交渉に赴いたが、そのまま拘束され、3月25日駅前で公開処刑(銃殺)された。

 いわゆる「白色テロ」とされているが、蒋介石政権はこの事件で全島に戒厳令を敷き、軍政を強化。以来38年間にわたって、世界に類例のない戒厳国家を維持。戒厳令下の弾圧を恐れる人々(特に台湾人)の間では、陳澄波という言葉すらタブーになっていたという。

▽司馬遼太郎がみた事件抗議の碑

 作家・司馬遼太郎の『街道をゆく第40』『台湾紀行』の中で、嘉義市を訪問した時の記述がある。司馬は同市で出来て間もないとみられる碑を見つける。そこには次のように書かれているという。

「第二次大戦後、台湾は日本の統治から脱離した。たれもが、自由で民主的な世がやってくるだろうと思っていたところ、あにはからんや、中国政権が台湾を接収し、派するところの陳儀・官兵は貧汚(たんお)、腐敗、無能、特権横行…」

 司馬は当然、日本語に翻訳してもらったのを記録したのだろうが、長い軍政の後に書かれた碑文は激烈である。

 司馬が台湾を訪問したのは1993年頃。1988年に李登輝氏が総統の地位を引き継いだ政権になって、台湾は自由化、民主化した。「民主化して5年あまり」(同書)で、これだけ激烈な碑文が掲示されていることに司馬は驚いていたが、なおかつ「陳澄波」という名前は同書に出てこない。まだ完全にタブーが解けていなかったということだろうか。

▽故宮博物院で特別展

 司馬の嘉義市訪問から約20年後の2014年暮れ、台北市の故宮博物院で「陳澄波特別展」が開催された。特別展は北京、上海、東京を回って台北に戻った。展示された陳の絵画は処刑後、遺族が密かに保存してきたものという。2017年には陳の風景画が山口県防府市で「発見」され、元台湾総督の依頼で描かれた「東台湾臨海道路」と判明、日本だけでなく台湾でも話題になったばかりだ。

 総統府の陳澄波コーナーは明らかに民進党の蔡英文政権と関係があると見られるが、その一隅に陳澄波自身が書いた日本の新聞記事のコピーが展示されている。新聞紙名は書かれていないが、「1935年秋」と手書きでメモがある。まだ日本統治下だった。「芸術の秋 アトリエ巡り」の一つで、タイトルは『阿里山の神秘を芸術的に表現する』となっている。

 陳澄波だけでなく、本省人(台湾人)として初めて中華民国総統となった李登輝氏や、経済人・作家として有名な邱永漢氏も二二八事件に関わっていたという。戦前の台湾に生まれ、才能があって、日本に留学した人たちは一時期、強制的に「日本人」とされた。

 防府市で陳澄波の作品が「発見」されたという報道はいつくかの新聞に掲載されたが、その一つ朝日新聞の2017年1月11日付の記事は「日本で教育を受けた文化人は、国民党からみれば危うい存在だった」と記している。二二八事件では政府の発表だけでも2万8000人を超す台湾人が犠牲となったが、この中で「日本人」になるよう強制され、日本語の教育を受け、日本で学んだ人たちの多くが、「日本語を話した」などの理由で虐殺されたことを忘れてはならないだろう。

犠牲者は事件から40年以上経って順次名誉回復されたが、日本の保守政治家は1949年に中華人民共和国設立後一貫して戒厳令下の中華民国を支持し、1972年の日中国交回復後も「蒋介石の恩義を忘れるな」と叫んできた。その蒋介石政権は「日本語を話す」ということだけで、台湾人(本省人)を抑圧し続けたのだ。台湾政府が日本文化の禁止令を解除したのは、民主化からしばらくした1993年とのことだが(李衣雲「台湾における『日本』イメージの変化、1945〜2003」)、私を含めて日本人はこのことにもっと関心を持たなければならないと反省したい。

【二二八事件】1945年に第2次世界大戦で敗北した日本総督府が台湾でも降伏し、国民党軍部が中心となった中華民国が台湾の統治を引き継いだが、大陸から進駐してきた軍人・官僚の質は極めて悪く、台湾人に対する強盗、強姦、殺人が日常茶飯となった。このため当初は中華民国政府を歓迎した台湾人は「犬(日本軍)去りて豚(国民党)来たる」と国民党への不満を高めていた。こうした中の1947年2月27日、台北でタバコの密売をしていた女性を摘発した国民党政権の官憲が女性を銃剣で殴打。女性に同情した民衆が詰め寄ったところ、官憲が発砲し民間人が死亡する事件があった。この事件をきっかけに軍事政権への怒りが爆発。抗議のデモが瞬く間に全土に広がったが、在台湾行政長官兼警備総司令の陳儀は憲兵隊に無差別発砲を命じ多数の死者が出たほか、陳儀の要請によって、当時大陸で共産軍と戦っていた蒋介石が大軍を派遣し、最終的に2万8000人超の大虐殺を行った(1992年台湾行政院推計)。日本語を話すというだけで投獄されるなどして、裁判官や医師、役人など日本統治時代に高等教育を受けた文化人がエリート層というだけで次々と逮捕、投獄、拷問、殺害されたという。この事件で発令された戒厳令はいったん解除されたが、1949年5月19日にあらためて発令され、1987年まで38年間も続いた。1988年の李登輝総統就任で自由化、民主化に舵が切られたが、1992年に刑法が改正されるまで言論の自由は制限されていた。

(続く)