「埋もれた歴史遺産を訪ねて」

支線となったため残った鉄道遺産

彷彿とさせる開業当時の姿

 

 愛知県で最初に鉄道が敷かれたのは知多半島の中程にある武豊駅と名古屋市熱田駅の間、約33キロだった。1872年(明治5)新橋~横浜間に国内最初の鉄道が正式開通してから14年後の1886年(明治19)3月1日。その時の駅は武豊、半田、亀崎、諸川、大高、熱田の6駅だった。曽田英夫氏の著書『発掘!明治初頭の列車時刻』(交通新聞社新書)によれば、1日2往復、1時間45分で両駅間を結んだ(客貨混合列車)。

 今ではローカルな単線の武豊線が注目されるのは、130年余を経た今日も開設に際して造られた施設が残っているためだ。特に、武豊から3つめの駅である亀崎駅の木造駅舎と、現在の武豊駅-東成岩駅間の川にかかる河川橋は1885年(明治18)から1886年に造られたとされている。

▽開業から変わらぬ木造駅舎

 資料などによると、亀崎駅の駅舎ができたのは1886年1月。開通の1、2ヶ月前だ。国内最古の現役駅舎と言われている。駅舎は一度火事で焼失したとの説や、燃えたのは官舎だけ、駅舎も燃えたが半焼だったなどといろいろな説があるらしいが、JR東海は「日本最古の駅舎」と説明している。

 木造平屋建て。駅に入る正面ファサードの上に「亀崎駅」の看板がある。現在は無人駅になっており、駅員が乗車券を発売していた窓口は閉ざされている。駅舎はかつて職員が宿直などをしていたこともあったのか、現在の半田駅などに比べて奥行きがある。残念ながら、JRは「最古」と称している割には内部を公開していない。開業当時から単線で運転されているが、レンガ造りがうかがえる1番線ホームは使われていない。跨線橋を渡って2番と3番のホームで上り下りの列車を待つ。

 開業当初から現役で使われている、もう一つの鉄道遺産が武豊-東成岩間の川に掛かる「石川B」と呼ばれる鉄橋だ。日本で最初に造られた新橋-横浜間の鉄道では最初は木造の橋が使われたが、早々に鉄橋に代わっている。武豊線が建設された当時は既にどこも鉄橋になっていたのだろうが、武豊町の「石川B」は「開業当時の姿を残す河川橋。イギリス人技師ボナールが設計した『ボナール型』と呼ばれる橋の典型」と書かれているものの、ボナールという人物がどういう人なのか、また「ボナール型」とはどういうものなのかとの記述が見つからない。しかしボナール型は「ボナール桁」ともいわれているところをみると、I型の桁を橋脚の上に渡したスタイルらしい。最も古い形式らしいが、130年も前の鉄橋が今も現役で働いているのをみると、明治期の仕事のレベルを感じる。

彷彿とさせる開業当時の姿

 愛知県で最初に鉄道が敷かれたのは知多半島の中程にある武豊駅と名古屋市熱田駅の間、約33キロだった。1872年(明治5)新橋~横浜間に国内最初の鉄道が正式開通してから14年後の1886年(明治19)3月1日。その時の駅は武豊、半田、亀崎、諸川、大高、熱田の6駅だった。曽田英夫氏の著書『発掘!明治初頭の列車時刻』(交通新聞社新書)によれば、1日2往復、1時間45分で両駅間を結んだ(客貨混合列車)。

 今ではローカルな単線の武豊線が注目されるのは、130年余を経た今日も開設に際して造られた施設が残っているためだ。特に、武豊から3つめの駅である亀崎駅の木造駅舎と、現在の武豊駅-東成岩駅間の川にかかる河川橋は1885年(明治18)から1886年に造られたとされている。

 武豊線開通から残っている2つの遺産よりも若干年月は下るが、「最古の跨線橋」とされる跨線橋が半田駅に架かっており、今でも現役で多くの乗車客が渡っている。1910年(明治43)に建てられたもので、正確には「建築時と同じ場所に残る最古の跨線橋」らしいが、鉄柱と鉄骨を組み、木材で床や壁を囲ったつくりは年月を経てもしっかりと人の歩みを支えている。鉄柱をよく見ると「明治四三年」と書かれているらしい箇所があるが、何度もペンキを塗って養生しているため、文字がかすれてしまっている。

 この跨線橋の近くには翌1911年(明治44)建てられたレンガ造りの小屋も残っている。「油倉庫」「危険品庫」などと表記されているが、明治から大正にかけて夜間信号機の火に使う灯油を保管していたといわれている。

▽レールが交差する転車台

 こうした明治期の鉄道遺産から、さらに下った1927年(昭和2)に造られた珍しい転車台が武豊駅から約1キロ南下したところにある。転車台というのは、レールの延長線に円形に掘り下げた回転台を設けてレールを張り、台を回転させて機関車(特に蒸気機関車)などの方向を変える施設。通常は一対(2本)のレールが台に乗っているのだが、武豊港駅があったところにある転車台は「直角二線式」。直径7.5メートルの円形木版張り「井桁状転車台」で一対のレールが交差している。愛知県の「文化財ナビ愛知」によると、貨車を何台も連続的に方向転換させるのに効率がいいと考えられたためという。直角二線式転車台は全国でも残存例が少ないというが、実際は武豊にしか残っていないようだ。このため国の登録文化財になっている。武豊町の資料によると、この転車台は「隣接地で操業していたライジングサン石油(今の昭和シェル石油の前身)の油槽所へ貨車(タンク車)を出し入れさせるために造られたという。サイズは当時の石油製品輸送用20トン積み3軸タンク車に合わせたとされる。ライジングサン石油は1901年(明治34)武豊港で操業を開始。中部日本全域に鉄道で石油製品を輸送していた。

 この地は、実は武豊駅が最初にあった場所に当たる。転車台の前には「武豊停車場跡地」と書かれた碑がある。武豊港は1899年(明治32)愛知県下初の開港場に指定され、様々な物資が輸送されていた。東海道線建設資材の揚陸地に指定され、線路などの資材の他、機関車なども陸揚げされた。しかし1892年(明治25)武豊駅は現在地に移転し、この区間は廃線となっていた。東海道線建設がほぼ終了したことがあったのかもしれない。その後、帝国火薬工業(現・日本油脂)やライジングサン石油などの工場が貨物輸送に再び鉄路を使うことになり「武豊港駅」として蘇り、1965年(昭和40)まで続いた。Googleの航空写真を見ると、いまでも旧武豊港駅のあった里中交差点から廃線跡が湾曲して武豊駅まで続いているのが分かる。