「埋もれた歴史遺産を訪ねて」江戸時代から続く先人の知恵    木製から煉瓦に、トンネル造りで祀られた県令

毎年のように、梅雨時になると各地で大雨や洪水がニュースになる。災害にあった人たちが、その都口同音に言うのが「こんな災害は初めて」という言葉だ。しかし、その地域では過去、本当に大災害にあったことはなかったのだろうか。そして「ダム建設や河川改修さえ行っていれば水害は防げる」のだろうか。

 「想定外」の災害が多発する中、嘉田由紀子・前滋賀県知事が提唱して制定された滋賀県の流域治水条例が、地球温暖化時代の治水対策として脚光を浴びている。滋賀県の治水条例の特徴は「先人の知恵に学ぶ」ということだ。「災いをやり過ごす知恵」がかつては住民の中にあったとする嘉田氏らは、琵琶湖周辺で先人たちが進めてきた治水対策を紹介している。その一つが、長浜市にある「田川カルバート」と「水引神社」だ。

▽川と川が立体交差

 嘉田氏らは前から水引神社を紹介していたが、2017年1月30日、志賀県政のウェブ版広報誌である『滋賀県政eしんぶん』に、「神社に祀られた県令」と題する展示会の案内記事が載った。タイトルの神社に祀られた県令(県知事)とは、滋賀県第2代県令の籠手田安定(こでた・やすさだ)という。籠手田県令が祀られている神社こそ水引神社であり、祀られる理由となったのが「田川カルバート」と知り、現地を見に行った。

 田川は長浜市谷口町の山中を源流とする淀川水系の一級河川で、流路延長は18キロ。江戸時代までは高時川、姉川と同市落合地区で合流していた。高時川と姉川は、砂礫の堆積で川底が周辺の土地よりも高くなるという天井川(滋賀県には全国の3分の1にあたる天井川が存在)であり、江戸時代は豪雨の度に田川に逆流。虎姫4か村(唐国、月ヶ瀬、田、酢)周辺は常に冠水という状態だったという。

 籠手田県令の肖像が安置されているという水引神社。県道254号が高時川の鉄橋を超えたところの脇道にあり、地図に載っているにもかかわらず、なかなか見つけられない。うっかりすると見逃すほどの、神社というよりも祠のような建物だった。田川は県道と高時川の下のトンネルを流れており、水引神社は道路を挟んで反対側の下流からの方が分かる。社の周りは雑草が生い茂っていたが、近所の人の話では毎年4つの地区が持ち回りで整備しているという。このトンネルこそが「カルバート」だった。

▽江戸時代の知恵とお雇い外国人の知識

 天井川から豪雨の度に流れ落ちてきて付近の田畑が水浸しになるため、幕末には田川を分水し、高時川の下を「伏越樋(ふせこしひ)」で通す工事が行われた。ちょうど彦根藩主、井伊直弼が大老だったころだ。地元4カ村が彦根藩から8万両を借りて工事。井伊大老は1860年凶刃に倒れたが、伏越樋は文久元年(1861年)完成した。川底に高さ1.2メートル、幅2メートル、長さ125メートルの伏樋(排水用トンネル)と、別に人工河川である新川を開削した。かなりの大工事だったことが分かる。しかし木製だったため、伏樋逆水門は数年で腐朽。住民は、明治になってから、より強固な伏樋を求めて滋賀県に陳情を繰り返した。これに応えたのが籠手田県令だった。

 地元4か村住民の10年以上にわたる陳情を受け、滋賀県は明治12年、淀川土木局の御雇工師であるオランダ人のヨハネス・デ・レーケに調査を依頼。デ・レーケは伏樋をアーチ状の煉瓦で造る「アーチカルバート(窮状伏樋)」を提案した。カルバートとは「用水や排水のための水路が道路、堤防、鉄道などの下に埋設されたもの」をいう。

 籠手田県令はデ・レーケ案に沿った改修計画を県議会に諮ったが、議会は2年間にわたって建設計画を否決。経緯をたどったが、最終的に明治政府から財政的な許可を得て、明治16年着手。18年7月完成した。2連造りのアーチカルバートは高さ1.95メートル、幅3メートル、長さ109メートル。煉瓦と石を組んで造られた。カルバートから琵琶湖河口までは直線に開削した人工河川となっている。総事業費は当時の金で7万円だった。その後、何回か改修が繰り返され、今日に至っている。

 注目されるのは、江戸末期に造られた「伏越樋」と「田川カルバート」。木製と煉瓦性という大きな違いはあるが、規模や構造はあまり変わらなかったことだ。デ・レーケの前に先人がいて、川を立体交差させるという知恵を絞っていた。

▽小さな洪水体験し大きな災いやり過ごす

 デ・レーケは明治6年来日。30年余にわたって日本に滞在。「近代砂防の父」といわれる。淀川や木曽三川をはじめとする河川改修に尽くした。日本の近代的治水工事の先駆けとされる「木曽三川分流工事」で有名という。

 ダムと堤防でその場を防ぐという「部分最適」の考え方は、2015年の鬼怒川災害の総括で「欺瞞性」が指摘されるようになったが、依然として「その場の堤防や河川改修を強化すれば防災」という「安全神話」の視点から日本人は抜け出せておらず、同じような災害が所を変えて発生し続けている。

高時川と姉川という2つの天井川に挟まれた低平地である旧虎姫町の4カ村は、カルバートが完成する前は毎年のように水に浸かり、農業も十分にできなかった。カルバートによっても「虎姫地区は200年に1度の雨で3メートル以上浸水する」といわれ、実際に虎姫まちづくりセンターの正面玄関にはカルバート完成後に起きた「明治期水害水点標」なる碑が残っている。しかし巨大な堤防を造ったり、天井川を廃するのではなく、小さな洪水を体験しながら、大きな災いをやり過ごす知恵が息づいているのが田川カルバートの教訓といえそうだ。