「戦争遺産を歩く」 日比谷・第一生命本社ビル

震災と戦災 GHQだけでない歴史

 

 ある年代以上の日本人なら、皇居のお堀端、日比谷公園に面した国道1号沿いにある白亜の建物を写真などで見た記憶があるだろう。日本が敗戦した1945年の9月から52年4月まで連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)に接収され、米軍のマッカーサー元帥(GHQ総司令官)らが本部として使った第一生命の7階建てビルだ。

 このビルの6階にマッカーサー元帥ら司令官が使った執務室とレセプション・ルームが残っている。2001年9月11日の米同時多発テロ事件以降「非公開」となったが、一部の学校の社会見学などには応じている。今回、東京の田園調布学園高等部の社会科授業「東京探検」に同行して、マッカーサー記念室を訪れた。同校は担当の川口重雄教諭のもと四半世紀にわたって社会見学を続けているという実績があり、毎年見学しているという。大半の日本人と同じく、GHQ、マッカーサーとの関連ぐらいしか第一生命館の認識はなかったが、実際に訪問してGHQだけでない現代史を学ぶことができた。

 

▽重厚なマッカーサー執務室

 第一生命館は列柱が並ぶ古典様式の骨格を用いた外観がまず目を引く。ホールは6回まで吹き抜けになっており、各階の部屋は内側にも窓を有している。総務課の近藤弘明さんの案内で高等部3年の生徒たちと6階に上がり、マッカーサー記念室に。まず訪れたのはレセプション・ルーム。10人ぐらいがゆったり座れるチェアが置かれた室内。壁材は米国産のクルミ材の一枚板で覆われ、床材はマホガニー材とサクラなどの材の寄木細工でできている。壁に付いていて目を引くのがエアコン。これらはすべて竣工当時から変わらないと近藤さん。残念ながら天井にあるライトだけは、竣工当時のものではない。

 レセプション・ルームと廊下を挟んで反対側にあるのが執務室だ。広さは約54平方メートル(16坪)という。部屋の造りはレセプション・ルームと同じだ。入室すると大きな机が目を引く。マッカーサーが実際に使っていた机だ。よく見ると机に引き出しがない。第一生命が作っている「ご案内」には「マッカーサーはたいへん几帳面で、何事も即断即決するため、この机を愛用していました」と書かれている。

 では、連合軍がどこからか運んできたのかというと、そうではない。第一生命第3代社長の石坂泰三氏が使用していた部屋であり、愛用していた机といすをマッカーサーはそのまま使っていたという。石坂氏も即断即決主義だったということか。

 いかにも記念室と感じさせるのは2枚の水彩画とマッカーサー本人の胸像、写真など。水彩画はマッカーサーのお気に入りが置かれたままという。英国人画家オルドリッジが描いた帆掛け船で、描かれた場所はフィリピン辺りを感じさせる。この絵が気に入ったのは一番長く滞在していたのがフィリピンだったからか。

 執務室は、朝鮮戦争の対処方針をめぐる対立でトルーマン米大統領から解任されたマッカーサーに代わったリッジウェー大将が1年間、クラーク大将が2か月間使用したが、期間が短く対日講和がほぼ固まった後だったためか、ほとんど日本人の思い出に残っていない。戦争中「出てこいミニッツ、マッカーサー」と歌い、帰国時には星条旗を振って見送った、あの時代の日本人とは何だったのだろう。

▽関東大震災受け設計された耐震ビル

 近藤さんに言われて気付いたのが、関東大震災では皇居から海に向かった一帯の建物がほとんど瓦解したことだ。第一生命館は当時、警視庁があった場所である。お堀端の警視庁から東京湾に向かう道沿いには朝日新聞社などの建物があったが、ほとんどが倒壊した。当然ながら新聞の編集、印刷はおろか、記者も安否不明となった。警視庁も同じ状況だった。

 なぜ被害が甚大だったかというと、江戸城の掘の前は太田道灌のころ海だったためだ。江戸時代に入って干拓が進められたが、しばらくは「江戸前浜」と呼ばれていた。これに対し江戸城の周辺は「山手台地」といわれ、地震・津波に強靭だった。江戸時代に干拓事業が進んだが、海岸と海だったところは沖積層で、江戸時代からの杭を打って板をはめ、砂で埋める方法だったため大地震にひとたまりもなかった。

 震災後、瓦解した国有地を政府が売り出し、第一生命は旧・警視庁の跡地を購入したが、農林中金が先に一部購入してしまったので、第一生命本社はL字型のビルになってしまったという。「大事なお客の生命保険情報を管理するので、関東大震災でも大丈夫なように」との方針で設計されたビルは地上部が7階だったのに対し、地下は4階もある当時では珍しいビルだった。

 東京国立博物館や銀座和光ビルなどを設計した渡辺仁が設計、清水組(現・清水建設)が施工したビル建設で採用された工法は「潜函工法」。地下約20メートルまで掘り下げると岩盤になるが、現代のように巨大なクレーンや機材を投入して、地下深くまで掘り下げる技術や機材のない時代であり、英国で採用されていた工法の日本第一号となった。

 清水建設のホームページによると、潜函工法とはコンクリート製の巨大な函(はこ)を置き、その下を人力で掘りながら支持地盤の第三紀層まで自重で沈めていくというもの。第一生命館では15基の函を設置して掘り下げた。函にした理由の一つは、地中深く掘り下げることによって日比谷濠の水が流入する恐れがあるとの指摘からだった。

 川口教諭がコピーしてきた同盟通信社発行の『国際写真新聞』1938年(昭和13)3月20日号は「完成近き超豪華建築」と題して特集を組んでいる。それによると、このビルには「某式暖房冷房」「採光防音」「書類移送管」などの新技術が採用されているという。ただ新技術の内容については「科学の粋とやらは、数えるだけで骨が折れる」と説明なし。このあたりが戦前のメディアの限界か。

 国際写真新聞が言及した「某式暖房冷房」は、マッカーサー執務室やレセプション・ルームで見かけたものである。第一生命館は1938年(昭和13年)に竣工したが、当時からエアコン完備だったことが分かる。

 第一生命がまだマッカーサー記念室を一般公開していた時代、いちいち6階まで案内するのが大変なので、1階に特設しようと検討したが、施工した清水建設が調査して不可能と判断。そのままになったとのエピソードも。特に当時の模様の入った窓ガラスと再現できないとなったそうだ。

 

▽大戦中は陸軍が接収

 「科学の粋」を集めて建築された第一生命館だったが、日本が15年戦争から、さらに太平洋戦争に突入すると、陸軍東部軍管区司令部に接収された。レセプション・ルームの豪華な雰囲気にそぐわない蛍光灯の天井照明。当然ながら、最初はシャンデリアだったという。接収とともに軍に供出され、現在もそのままになっている。進駐してきて、エピソードを聞いた連合軍将校たちは何と思ったか。

 屋上には高射砲が4基備えられた。しかし使用した形跡はないという。東部軍管区が最も活躍したのは「日本の最も長い日」の前日。8月14日の夜だろう。一部の陸軍将校らがクーデターを謀った「宮城事件」。最後の軍管区司令官(兼第12方面軍司令官)だった田中静壱大将が単身、銃刀を持たずに宮城に向かい、反乱将校を説得したという。

 田中大将が自決して間もなく、GHQは一帯を接収。第一生命館の一つ隣の明治生命館には対日理事会が開催されたが、いずれも全く空襲を受けていない。連合軍は占領後の対応を考えながら空爆していたということになるのだろう。

(2017年6月5日)