「埋もれた歴史遺産を訪ねて」

日本初の電気鉄道と水力発電所(2)

京都復興のシンボル、琵琶湖疏水と蹴上発電所

 

 日本最初の電気鉄道である京都電気鉄道伏見線(京都駅南側-伏見区下油掛町)の動力源となった電力を供給したのは、鉄道開業の4年前、1891年(明治24年)に発電を開始したばかりの京都市営蹴上発電所だった。水力発電所なので、京都でも郊外にあると思い込んで訪ねたが、場所は京都市営地下鉄東西線の蹴上駅のすぐそば。駅から坂を下った三叉路の向こうに見える赤レンガの建物、これが蹴上発電所だ。三条通りを挟んだ反対側にはウェスティン都ホテル京都。発電所から南禅寺に向かう道路に沿ってインクラインと呼ばれる台車に船を積んで坂道を上下したケーブルカーの敷地が保存されている。蹴上発電所は琵琶湖疏水の流れ落ちる水を利用したものであり、電気鉄道とセットで京都の復興を推し進めた。

▽市中の半分を焼失し、人口減に

 琵琶湖疏水は福島県の安積疏水、群馬県の那須疏水と並んで「日本3大疏水」とされている。疏水とは土地を切り開いて作った人工の水路であり、最近はこうした水路は運河と呼ばれている。

明治期に造られた3大疏水のうち、最も時期が早いのは安積疏水で1879年(明治12年)日本の国直轄の農業水利事業第1号として掘削が進み、1882年(明治15年)完成している。安積疏水については御雇外国人のオランダ人ファン・ドールンが調査して着工を勧めたとされているが、実際の全体設計は内務省の技師、南一郎平が行った。目的は荒れ果てていた大地に水を通し、会津藩などの氏族に農地を与えることだった。

残る2つの疏水は同じ1885年(明治18年)に着工されている。ともに南一郎平が係わっていることも同じだ。しかし那須が同年中にわずか5ヶ月で通水を行ったのと対照的に琵琶湖は5年近い歳月を要した。

琵琶湖疏水開発は1881年(明治14年)に始まった。この年、第3代京都府知事に就任した北垣国道が「東京への遷都以来衰退の一途をたどる京都復興のため」琵琶湖から京都市内に上水を引く事を考えたと、いずれの資料にも同じように書かれている。

しかし、なぜ衰退し人口が減少したのかは記されていない。衰退原因を遡ると1864年の「禁門の変(蛤御門の変)」に行きつく。「長州藩兵士が市内に火を放って敗走したため市中の大半が焼け野原になった」というのだが、その規模は約2万7千戸の焼失。甲子雑記によると全町数1459811町、55%に及んでいる。「元治の大火」「どんどん焼け」と称されるゆえんである。明治天皇が東京(当時は江戸)に居を移したのも大火と関係があるかもしれない。150年前の「大政奉還」には、こんな出来事があったのだ。

 

▽船による物流を可能にした運河

北垣知事が就任したのは大火から17年後だったが、復興には思い切った事業が必要と判断しただろうことは想像に難くない。市中は不衛生なままであっただろうし、産業を起こさなければ人は戻ってこない。官吏として安積疏水の話は承知していたはずで、北垣知事はほぼ完成となって余裕のできた南一郎平に調査を依頼した。

南らの調査で水路建設は可能となって北垣知事は国や市に働きかけて工事に取りかかるが、このとき工部大学校(現在の東京大学工学部)土木科在学中の田辺朔郎が学術調査に訪れ、卒論で疏水を取り上げた。この卒論が北垣知事の目に留まり、田辺は1883年(明治16年)21歳の若さで京都府准判任御用掛に就任。1885年(明治18年)8月着工した琵琶湖疏水の開発に邁進するという話も、どこにでも出ている。

では南はどうしたのだろう。どこにも出ていないが、琵琶湖と同じ18854月に着工した那須疏水開発の中心は南だったのではないだろうか。那須は疏水によって普通の農地になったというわけではない。明治の元勲たちの別荘が多数でき、元勲たちはここで農作業をしていたのだ。大正時代に那須御用邸が建てられたのも、元勲たちの別荘と無関係ではない。うがった見方をすれば、南は元勲たちの要請を第一にして突貫工事で疏水を造ったとも思える。

 

琵琶湖は逆に言えば、田辺ら若い力を積極採用したことで、安積や那須とは異なった疏水利用を生み出した。長大トンネルなど難関工事による殉職者も出た中、琵琶湖疏水は1890年(明治23年)4月竣工。大津の琵琶湖取水口から鴨川まで11.1キロが水路でつながった。竣工式には明治天皇夫妻も臨幸したという。疏水の勾配は蹴上部分を除いて3000分の13キロ進んで1メートル下がる)という精密なもので、述べ就労人数400万人、当時の金額で125万円という巨大な事業だった。その後、伏見区の夷川まで伸び、約20キロの疏水は京都市民の「いのちの水」となっただけでなく、琵琶湖から京都市内の2つの川を経由して、淀川から大阪湾まで連なる物流ルートとなった。

水車20台、エジソン式直流発電機やトムソンハウストン交流発電機など交直両方の発電機が19基据え付けられ出力は1,760キロワットになった。この間、1895年には日本初の電気鉄道である京都電気鉄道や、同時に開催された第4回内国勧業博覧会に電力を供給している。

 京都市は第2代市長・西郷菊次郎の手で①第2疎水開発と第2期蹴上発電所建設②水道事業③道路拡張と市内電車拡充-を目玉とする「京都三大事業」を展開。中核となる第2期蹴上発電所は1908年(明治41年)着工、1912年(明治45年)3月に竣工した。現在、外から見える赤レンガの建物は第2発電所である(現在、発電されていない)。

 その後も京都市の電力需要は急激に増加。京都市は1932年(昭和7年)第3発電所の建設を開始し、1936年(昭和11年)1月竣工した。その際、第1期発電所を壊して、その上に建てたため、第1期発電所は残っていない。第3期発電所は交流式発電で出力は7,500キロワット。建物もコンクリート造りの味のないものになってしまった。1942年(昭和17年)の配電統制令により、発電事業が関西配電に移管され、戦後は関西電力の所有となっているが、今も発電を続けている。出力は少ないが、水源は枯れることがない。

▽精密な測量図

 蹴上発電所からインクラインのレール跡に沿って500メートルほど下ったところに「琵琶湖疏水記念館」があり、その1階に第1期発電所で使われたペルトン水車とスタンレー発電機が飾られている。発電機は米国のスタンレー電気会社製造で、二相式交流発電機、出力は60キロワット。「現在の発電機とは異なって、回転子にコイルがなく、固定子の側に界磁コイルと電機子コイルが取り付けられている」との説明が付けられている。

 記念館には琵琶湖疏水の計画から建設までの経過などを示す資料などが展示されているが、驚くのが測量技師・島田道生が作成した「従滋賀県近江国琵琶湖至京都通水路目論見実測図」。当時の道路、民家の配置、山林などが航空写真を写し取ったかのように細密に描かれている。精密な測量と正確な設計が3000分の1の勾配という疏水を可能にしたのだろう。

 京都復興を支えた、もう一つの柱であった京都市電は1978年(昭和53年)331日で営業運転が廃止された。荒川線を除く東京都電や横浜、名古屋、大阪などの大都市市電に比べると廃止時期は遅かったが、モータリゼーションと「独立採算制」という壁には抗しきれなかった。

記念館前を流れ下った琵琶湖の水は、京都市動物園の脇を通り、直角に曲がりながら平安神宮の前に出て、さらに直角に折れ今も鴨川に注ぐ。その近代的な運河の中で溜まった砂を浚渫していた。京都市水道局の資料によると、琵琶湖疏水は「京都市民と産業人に希望と勇気を与え、京都の近代化を根底的に支えた歴史的大事業」だったが、日常の中にすっかり溶け込み、市民は今「ただ(無料)」と感じているのだろうか。