原発事故帰還困難区域の大熊町を見る(2)

「5時間かけ避難、暖かいお握りにホッと」

「大熊ふるさと応援隊」渡部千恵子理事長が語る避難状況

 東日本大震災と東電福島第一原発爆発事故からヶ月が過ぎた。国内では震災と事故に対する「風化」が進んでいるが、依然として約18万人が避難を続けている(今年1月時点)。特に福島第一原発から20キロ圏内では、被災した家屋の撤去もままならない状態だ。そんな中で起きた1122日の福島沖地震・津波。第一と第二原発には1メートルの津波が襲来、第二では使用済み核燃料プールの冷却設備が一時停止した。1時間あまりで復旧し、政府や東電は問題なかったと主張しているが、今回も異常発生から約1時間たっての発表だった。

  電力会社の姿勢に対する不信は根強いが、政府は次々と原発の再稼働を推し進めている。地域住民だけでなく、大都市の国民も容認したままだ。しかし、いったん大事故が起きたらどうなるのか。事故直後、全域が「警戒区域」となった大熊町で町内バス視察事業を行っているNPO法人大熊町ふるさと応援隊の渡部千恵子理事長が当時のことを話してくれた。同じような悲劇を繰り返さないためにも、渡部理事長のような「語り部」の言葉に耳を澄ます必要があるだろう。

2000人が1つの体育館に

 以下、渡部理事長の話。

  大地震と津波が発生した201112日早朝、田村市への避難指示が出た(注1)。政府が確保した70台のバスが大熊町に来て、住民を乗せた。国道288号を通って田村市都路の都路中学校に向かった。出来るだけバスということだったが、ペットやお年寄り、子どもがいる人は自家用車で避難した。私は当時町職員(保育士)。職員は時前に集合。にバスが順次出発した(注)。大熊町内で集合していた最初の避難場所の責任者になったので、バスに町民を乗せる案内も行い、家族とは別々に。都路への国道は山の中を走っているので、地震による崖崩れで途中の道が止まっていないか不安だった。通常なら1時間の道のりだが、渋滞で5時間近くかかった。中学校はあっという間に満員に。

  大熊町は前夜から停電していたので詳しい情報が入らず、皆「日程度で帰れる」とのんびりしていた。しかし川内村などテレビやラジオで情報を得た人たちが合流して、その情報で初めて大変な事になっていると知った。

  午後になって1号機が爆発したというので、都路も避難対象となり、さらに北上して常葉の田村市総合体育館に町民の多数が入った。町民は日に全町一斉に会津若松市に移るまで、この体育館や船引の小学校などで集団生活を送った。私は最初に総合体育館に入って世話をし、残務整理などがあるというので16日まで田村市にいた。総合体育館は会津若松市に移転するまで大熊町の本部が置かれ、多いときで2000人が生活。こういう人たちの世話が中心だった。総合体育館だけでなく、田村市内20数カ所で分散して避難生活を送っており、その連絡も大変だった。

 

 

▽お手玉とラジオ体操

  314日の号機爆発後、乗用車で避難してきた人がさらに遠くに自主避難したり、遠くから迎えに来た親戚と一緒に出ていく町民もいて、次第に人数は減った。体育館には自主的に避難できない人、町と一緒に行動すると決めていた人が残った。しかし迎えが来て、避難所の人が減っていく様子を見ているお年寄りは、次第に気が滅入っている様子が分かった。そこで気が紛れることを考えた。一つがお手玉作り。古着の裏地を裂き、大量にあったカップ麺の発泡スチロールを千切って詰めた。お手玉としては今ひとつだったが、仕事を作るのと、手で握ることによるリハビリに。もう一つがラジオ体操。田村市の小中学生が指導してくれた。

 避難所では何をやったらいいか分からず、ボンヤリしている人たちが多かった。皆「ボンヤリしているのが辛い」と言う。それで自主ボランティアを立ち上げた。気持ちのある人に参加してもらった。外の水道から中に水を運ぶ係、外のガスで炊事の世話をする係、トイレや玄関の掃除、お年寄りへの声掛けなど、役割を決めて皆で動いた。この繋がりは強く、今でも会えば互いに親しみが湧く関係が続いている

  体育館では成人の引きこもりもいた。両親は神経をすり減らしていたので、更衣室に移って家族だけで生活してもらった。多動性症候群の子どものいる一家も更衣室に。支援食糧はかなり入った。お年寄りの中には余計にもらって隠してしまう人がかなりあり、ソーセージパンなど食中毒の恐れがあるため、回収して回るなどの苦労があった。

 無我夢中の1ヶ月だった。日に会津若松市に役場機能を移した。大型バスで移動。 温泉旅館に住民を割り振り、震災後初めて畳の上で寝る生活ができるようになった。田村市では自衛隊の風呂に順番に入る生活だったので、お年寄りたちは「極楽、極楽」と言い、手足を伸ばして寝たと聞いている。

 

▽保育士の技能が一番役立つ

  私は大熊町の職員だったので、一時帰宅が始まる前に防護服を着て町役場などに置いてきた書類を取り出しに町内に入っていた。一般町民の一時帰宅は6月初めから。会津若松市から集合場所の広野町の公民館に向かう大型バスの添乗員を務めた。公民館で小さなバスに分乗して各戸の地域に。最初は小さなポリ袋1つだけ。小さなバスの中で皆膝に精一杯の荷物を袋に乗せていた。

  私の家は原発から2.8キロの「3キロ圏内」にあるので、一時帰宅できたのは月に入ってからだった。父は避難してから何度も「いつ帰れるのか」と聞いていたが、一度も帰還できず8月に会津で死んだ。

  震災発生は定年の1年前だった。最後の1年間は学童保育を会津若松市で担当した。障害を持った子どもたちと親が、狭い旅館の1室で生活するのは無理。大熊町は会津の閉校になった高校校舎を借り受け、1階を役場に、2階を中学校としていたが、別に小学校の1室も借りていたので、そこで学童保育を行った。

  災害対応をしてみて、保育士でよかったと実感した。避難所生活の流れは幼稚園や保育園とほぼ同じ。風呂に入るのも順番があるが、遊び心を入れて流れを作った。また長年、同じ町で保育をしてきたので子どもの保護者だけでなく、その親を皆見ていたため協力してくれる人も顔見知り。協力してもらいやすかった。保育士の集まりで被災体験を話し合時に「保育士が一番力を発揮できる」と話している。

  避難所で自主ボラを立ち上げたときから役場に担当を任されていたので、課長たちも私にまず話をして、相談の上進めたため運営はうまく言ったと思う。しかしトラブルがなかったわけではない。食事の配給で消防団の人たちが配っていたが、間違えて配った時に怒ってきた人がいた。そんな中避難者の側から、怒っている人をたしなめてくれて、大事にならずに済んだことも。

  11日深夜か12日早朝、私たちが避難する前に田村市では防災無線で「大熊から避難してくる人たちがいます。毛布を提供してください。お握りなどを作ってください」などと放送していたという。

 田村市に着いたら近隣の人がお握りを持ってきたり、毛布や布団など提供してくれた。暖かいご飯にホッとした。また「何が必要か?」と聞いてくる人もいた。小さい子供のいる家庭では、お絵かき帖やクレオンがあると助かると言っていたら、持ってきてくれた。サンダルで避難してきた人で靴をもらったという人や、着の身着のままだったので上着をもらったという人もいた。大変な目に遭うと人々は優しくなる。その優しさが本当に嬉しかった。

 

(注1)公式文書によると大熊町への東電事故の説明と避難指示は近隣自治体よりも早かった。11日夕に第一原発で運転中の1~3号機が自動停止し、全電源を喪失した段階で、政府は原発から半径3キロメートル圏内に避難指示を出しており、12日午前時過ぎには細野豪志首相補佐官(当時)が直接電話で大熊町長に避難指示を伝えている。

 

(注2)大熊町は第一原発から半径2キロ圏の「警戒区域」に全町が入り、2011年当時約11500人の全町民が避難。同じく全町が警戒区域の双葉町は約6900人、富岡町は約16000人が避難。「警戒区域」と、20キロ圏外だが年間積算線量が20mSvに達する恐れのある「計画的避難区域」が行政区内に含まれる浪江町は約900人が避難した。国の住民避難指示は半径キロ圏内が11日午後23分、半径10キロ圏内が12日午前44分。20キロ圏内の避難指示は12日午後25分。国会事故調の調査では、12日午前時以前に事故の発生を知っていた住民は20%以下という。(国会事故調報告書336ページ)

 20111123日)