「埋もれた歴史遺産を訪ねて」            清水港の一角に残る小さな缶詰記念館

日本の輸出を支えた缶詰業者は日本で最初に最低賃金制度を導入

  静岡市清水区に缶詰の博物館があると聞き、見に行った。場所は清水港湾博物館(愛称)「フェルケール博物館」)の敷地内。こぢんまりとした木造2階建ての建物で、「缶詰記念館」が正式名称だった。缶詰はどの家庭にもあり、生活になくてはならないものの一つだ。そんな缶詰を記念する博物館にしては小さいが、この建物はSSKの標章で有名な清水食品(現在は「エスエスケイフーズ」)の初代本社ビルを現在地に移築したものという。なおかつ、ここ清水が缶詰発祥の地というわけではない。後から知ったが、清水で缶詰が作られ始めたのは、日本で最初に缶詰を作られてから150年近く経ってからだった。しかし缶詰記念館を見学すると、ここに建てられた理由が何となく分かる。

 

▽サケ缶からツナ缶成功まで半世紀

  記念館の内部を見学すると、SSKのロゴの入った缶詰ラベルの印刷物や、缶詰加工機械の模型などが並んでいる。記念館自体は狭く、展示物は少ないが、目を引くのは手書きの「缶詰の年表」。また歴代社長の写真が飾られているが、それを見ると清水食品の初代社長は6代目鈴木与平氏だった。静岡県民なら鈴木与平という名から商社の「鈴与」を連想するだろうが、SSKブランドは鈴与が作ったものだったことが分かる。ちなみにフェルケール博物館も鈴与の7代目鈴木与平氏が創設した。フェルケールとはドイツ語で「交通」という意味らしい。

  缶詰工場は全国にあるが、ネットで調べても博物館のようなものは、この記念館だけ。なぜ清水に建てられたのだろうか。手書きの年表を基に缶詰の歴史を垣間見てみる。まず缶詰の「発明」とされているのは、1804年にフランス人ニコラ・アペールが食品の瓶詰めに成功したことによる。日本では1871年(明治4年)、松田雅典という人が長崎で初めて試作に成功。松田は日本の缶詰の始祖と呼ばれている。松田が試作したのはイワシの油漬けだった。缶詰は欧州よりも米国で盛んになったらしく、松田が試作に成功した当時、米国では既に年間の生産高4000万缶となっていた。

  日本では明治政府が積極的に導入を図り、1877年(明治10年)に北海道開拓史が官営石 狩工場でサケ・マスの缶詰作りを始めた。この缶詰ができた同年10月10日は「缶詰の日」となっている。一方、清水で最初の缶詰が作られたのは1928年(昭和3年)。サケ缶から半世紀後のことだ。静岡県水産試験場の技師、村上芳雄がこの年、マグロの油漬け缶詰の試作に成功。起業家のために出資者を求めているという話を6代目鈴木与平氏(鈴与社長)が聞き、清水食品を創立。翌29年(昭和4年)マグロ油漬け缶詰製造を開始、30年(昭和5年)には早くも米国に輸出を始めた。

  今でも缶詰の中身はサケ・マスとマグロ(ツナ)が有名だが、その製造成功に半世紀のズレがあったことは興味深い。1881年(明治14年)に開催された第2回内国勧業博覧会にはカニ缶や大和煮など百種以上の製品が出展されていたとのことだが、なぜツナ缶が出来なかったのか。どんな油がいいのか、製品を保つ油の質などをどうするのかなど、村上技師は苦労を重ねたそうだが、記念館では詳しい説明はない。ただ試作に成功した1928年、昭和天皇が巡幸してマグロ缶を見たという記録もあるので、日本としても大きな成功だったに違いない。その村上技師は清水食品の第4代社長に就任している。

 

▽法施行よりも早く最低賃金導入

  特筆すべきは、この記念館の外に「最低賃金全国第1号記念碑」があることだ。戦後の話だが、静岡県内の缶詰業者は1956年(昭和31年)4月、工場従業員の初任給に最低賃金を設定するという協定を結んだ。同時に年齢別、経験年齢別の標準賃金も設定したという。国による最低賃金法制定1959年(昭和34年)であり、依然として最低賃金が守られていない現状をみても、静岡の缶詰業者の前向きな意識が感じられる。なぜ日本最初の缶詰試作地でもなく、「缶詰の日」に関係のない清水に缶詰記念館があるのかという疑問に直接答えるものではないだろうが、大きな要素の一つだろう。

 清水港は江戸末期から明治初期に活躍した清水次郎長でも有名な通り、江戸時代から貿 易港として栄えてきた。静岡の特産物であるお茶の輸出も明治から盛んで、フェルケール博物館には様々な茶のシールが展示されている。缶詰は戦時中、軍による統制で軍用主体となったが、戦後に民需が復活。1950年(昭和25年)には缶詰がお茶をしのいで清水港の輸出品トップとなった。ただ1965年(昭和40年)にはオートバイに抜かれており、この辺りはいかにも静岡らしい点だ。

  日本の輸出を支えたツナ缶も、国際的な漁業規制などで大幅に減少。輸出の花形ではなくなった。日本缶詰びん詰レトルト協会によると、2015年(平成27年)の日本の丸缶の生産量は303万964トンだが、ジュースやビールなどの飲料が280万890トンと9割以上を占めている。代わって増えているのがレトルト食品で、日本缶詰協会も名称を変更したほどだ。それでも清水の付近には缶詰会社が何社も残っている。SSKだけでなく、「ほてい」や「はごろも」といったなじみ深いブランドも多い。

  缶詰の歴史をみると、最初に瓶詰めを作ったアペールはナポレオンの遠征用に求められてのことだった。米国で缶詰が急速に伸びたのは南北戦争が大きな要素となった。日本でも西南戦争に初めて缶詰が軍納されている。缶詰に代わるレトルトも米陸軍が開発したも のの民需転換である。そんな中、清水の缶詰製造は政府や軍の要請とは関係なく始まったことを覚えておきたい。

 

▽清水港には機械遺産のクレーンも

  なお、フェルケール博物館からすぐ近くのエスパルス・ドリームプラザの一角には「テルファークレーン」が設置当時の姿のまま展示されている。このクレーンは清水港で運搬船から貨物列車に木材を積み込む荷役機械として作られた。設置されたのは1928年(昭和3年)。奇しくも村上技師が苦労してマグロの油漬け缶詰試作に成功した年だった。

  船から釣り上げた木材を、レールに沿って平行に運び、貨物列車に運び込むシステムで、ベルトコンベアでは1台の貨物列車に1日かかった積み込みが、わずか48分で済むようになったと記されている。当時は神戸港と名古屋港にしかなかったクレーンだが、神戸と名古屋は撤去され、残っているのは清水だけ。文化庁の登録有形文化財、日本機械学会の機械遺産に認定されている。

(2016年7月16日)