「埋もれた産業遺産を訪ねて」

明治の産業革命に一役買った「ガラ紡」             紡績が盛んな三河で発展した綿糸製造機

「ガラボー」と聞いて、何を思いつくだろうか。最初に聞いた時、何のことかさっぱり分からなかった。ガラボーは「ガラ紡」と書くと言われても、何だか分からない。さらに「船紡績」と重ねて言われると、紡績であることは理解できても、それ以上は想像できない。

 そんな「ガラ紡」、明治初頭から一世を風靡した綿の紡績機だった。「世界に類例のない独特の紡績法」で、明治10年(1877)の第1回内国勧業博覧会で「余以テ本会中第一ノ好発明トナス」(お雇い外国人のG.ワグネル)と絶賛され最優秀賞である「鳳紋章」を受賞。あっという間に世の中に模造品が出まわる騒ぎとなり、各地で広まった。最初は手回しの動力だったが、水車を動力として生産能力が一気に高まった。「船紡績」とは、川に浮かべた船に水車を取り付け、川を流れてくる水で水車を回し、船内の紡績機を回したものという。ガラ紡のガラとは、滑車が回転してガラガラと音を立てることから来た。

▽愛知大学で現物を動態展示

 ガラ紡の現物が豊橋市にある愛知大学本館生活産業資料館(大学記念館1階)の「ガラ紡展示室」にあると知り、見に行った。展示されているのは昭和30年代まで豊田市内で働いていた機械で長さは3間(約5.5メートル)、228鐘を有する。ほとんどの構造は木でできている。動態展示といって、毎週金曜日には実演もしているという。

 展示室にはガラ紡本体と並んで、底に鉄心が出ている金属製のパイプや、竹製の円筒形の筒なども展示されている。金属製のパイプは「つぼ」といい、鉄心は「つぼ芯」。紡績にあたってガラ紡機に垂直に付けられ、つぼ芯は下の台にある天秤に接触している。竹製の小さな筒はその間に置く「遊鼓(ゆうご)」と呼ばれるプーリーで、「下ゴロ」と呼ばれる駆動軸によって遊鼓が回転、その力がつぼに伝えられつぼも回転する。

 ガラ紡の仕組みは簡単にいうと、上部に糸を巻き取る筒(糸枠)があり、その下にある綿の入った「つぼ」から糸が伸びており、歯車や滑車の動力で下ゴロが回り、その動きが遊鼓を通じてつぼを回転させ、上の糸枠から引っ張られるように綿が糸になって巻き上げられていく仕組みだ。つぼが回転しているので、糸は引っ張りあげられるときに撚りがかかり、糸が紡がれる。

 国立公文書館の簡単な説明によると、「手回しのハンドルを回転させると綿筒と糸巻が同時に回転し、綿筒の中の綿が撚りをかけられ、糸となって糸巻きに巻き取られる」というもの。しかし、これだけでは詳しい仕組みが分からない。

 つぼ芯が天秤と接触するところには「羽根」とよばれるクラッチがある。綿はつぼの回転で撚りをかけられながら、上に引っ張られる。引っ張られる力が強くなり、つぼ自体も引き上げられると羽根が外れて、つぼの回転がストップ。上からは糸が引っ張られているが、撚りがあまくなるのでつぼは下がる。つぼ芯が再び羽根と接触するとつぼが回転し、撚りが掛かるという仕組みだ。その微妙な動きを支えているのが、重りをつけた天秤。この一連の複雑な動きを明治の初頭に発明されたことに驚く。

▽一台で賄う紡績の3工程

 紡績の基本作業は①繊維を揃える②繊維を引き伸ばす(ドラフト)③繊維に撚りをかける④できた糸を巻き取る-の4工程とされる。洋式紡績機はこれらの工程を分割して行うのに対して、ガラ紡は①以外を一台の機械で行ってしまう。「世界に類例のない独特の紡

績法」といわれる所以だ。それまでは手回しの糸車による糸紡ぎだったが、綿筒(つぼ)をいくつも並べたガラ紡は生産性を一挙に数十倍も高めた。

 このお雇い外国人をうならせた発明者は臥雲辰致。安城市の資料では「がうん・たっち」と書かれているが、現物を動態展示している愛知大学では「がうん・ときむね」。国立公文書館の記載も「ときむね」となっている。長野県に在住した元僧侶で、明治初期の廃仏毀釈で寺がなくなった後還俗して、紡績機の発明を進めた。機械そのものは明治6年(1873)に完成したが、改良を加えて博覧会に出品して多大な評価を得た。発明のきっかけは、火吹竹の筒に詰めた綿を穴から引き出しながら回すと、糸になって出てくることに気付いたこととされている。

 臥雲辰致はこの発明の功績で明治15年(1882)藍綬褒章を受賞。しかし当時は特許制度が整備されておらず、臥雲の生活が困窮していたことが特許制度の創設を促す理由の一つとなったという。その意味でも貴重な発明といえる。安城市歴史博物館には第1回内国勧業博覧会に出展された手回し式精紡機(ガラ紡)の復元モデルが展示されている(動かすことはできない)。

▽綿花の大生産地、三河で発達

 愛知大学の資料によると、全国でガラ紡が最も普及、発展したのは岡崎、豊田、額田を中心とする三河地方で、臥雲辰致が内国勧業博覧会に出展した同じ年に、早くもガラ紡は持ち込まれた。はじめは40鐘の手回し紡績機だったが、明治10年(1878)年には水車紡績が導入され、翌明治11年(1878)には船の両舷に水車を付けて停留させ、川の流れで水車を回して船に積んだガラ紡を運転する船紡績も始まった。最盛期の明治31年(1898)頃には、矢作川全体で100隻余が船紡績を行っていたという。(以上、愛知大学中部産業研究所『日本が誇る産業遺産・三河ガラ紡』(2005年10月8日)より)。

 矢作川の川面に100隻もの船が水車を付けて並び、その中で綿紡績が営まれていたと想像するだけで、どんなものだったか知りたくなる。船紡績という聞き慣れない紡績業が水車紡績とほぼ同じ時期に始まっていたということも興味深い。しかし動力源が手回しから水車、電気と変化する中で、船紡績は山間の水車紡績より先に廃れた。

 だが、なぜ三河地方だけで発達したのだろうか。臥雲辰致はガラ紡で細糸を紡ぐことができるように改良した後、長野県の松本深志町に工場を建てて、水車を動力源として紡績を営んだとされるが、長野県で大きく発展したようには見えない。

 ガラ紡が愛知県三河地方で専ら発達した理由の一つは、三河が元々綿花の栽培地だったことだ。江戸時代から三河は摂津、河内と並ぶ産地で、特に矢作川下流域で盛んだった。しかし三河一帯の綿花栽培は明治20年代に入って廃れる。海外から良質なインド綿が輸入される一方、輸出の花形となったシルクのために農家が副業として養蚕を行うようになったからといわれる。

 この明治20年代が三河ガラ紡の最初のピークだった。しかしガラ紡で出来た糸は「太く、ムラがあり、撚りが甘く、切れやすい」という性質があり、コットンの布地に要求される「細くて均一で丈夫」という糸質に合わなかったため、洋式紡績に負けることになった。だがガラ紡はこの時には廃れていない。洋式紡績の落綿を原料に太糸生産に活路を見いだし、布団袋、足袋底、帯芯など向けに生産を続け、昭和10年代には三河一帯で170万鐘を数えた。だが第2次世界大戦の戦時統制で半減させられ、戦後いち早く復興したものの、現在では産業としては消えてしまった。

 

▽欧米の洋式紡績に渡り合う

 一方、洋式紡績機が国内各地で最初に導入されたのも三河だった。実は明治政府はシルクの富岡製糸場(群馬県)と並んで、官製の綿糸紡績所を計画。官営愛知紡績所が岡崎に造られている(明治14年、別表参照)。官営岡崎紡績所は出来た当時世界最大規模といわれたが、民間に払い下げられた後の明治29年(1896)工場火災でなくなってしまった。その後、民間の大手紡績会社が三河や尾張に誕生している。

 あらためて明治初頭の技術革新状況をみると、非常に興味深い。新橋-横浜間で最初の鉄道が開業したのは、臥雲辰致がガラ紡機を発明する前の明治5年(1872)である。同じ年には官営富岡製糸場も設立されている。近代化を急いだ薩長中心の明治政府は、欧米からの技術を丸々導入する「文明開化」に猛進した。「上からの産業革命」ともいえる。戦後の原発開発も同じような欧米からの技術導入中心だったが、この辺りの仕組みは明治初頭から変わっていない。

 そんな状況下での臥雲辰致の綿紡績機の発明。競って導入したのは、地域の素封家などを中心とした小規模零細業者とみられ、三河では「お上主導」で発達したのではなかっただろう。長野県の寒村で生まれたガラ紡が一時期、その時点で既に1世紀もの歴史を持っていた洋式紡績機と互角に渡り合ったという事実はなかなかのものだ。

(2016/6/24)