「紀行」731細菌部隊の遺跡を訪ねて(6)

共産党政府下で行われた珍しい日本人戦犯裁判                                 瀋陽で復元された1956年の特別法廷

 第2次世界対戦から約10年経った1956年6月から2ヶ月ほど、中国遼寧省瀋陽市で日本軍戦犯に対する特別法廷が開かれた。被告となったのは陸軍第117師団長だった鈴木啓久中将ら45人。最大20年の禁固刑(教育刑)を受け撫順改造収容所などに収容されたが、1964年4月までに全員が釈放され、日本に帰国した。この特別法廷があった場所は、その後長らく映画館として使われ、中国内でも忘れられていたが、2014年5月「瀋陽審判日本戦犯法廷旧址陳列館」(和名、日本戦犯裁判所旧跡の陳列館)として復元された。

▽シベリアから送還、朝鮮戦争後に裁判

  特別法廷で公判を受けた日本人戦犯は1945年9月、ソ連軍の旧満州制圧によって捕虜となりシベリアに送られた敗残日本兵の一部。中国国内の国民党と共産党との内戦で共産党が勝利し、1949年10月中華人民共和国が建国された後、毛沢東とスターリンの会談で969人の戦犯が翌50年6月ソ連から毛沢東の中国に引き渡され、撫順改造収容所などに送られた。溥儀らが収容されていた施設だ。

 戦犯に対する裁判はすぐにも始められる予定だったらしいが、戦犯が引き渡されて間もない6月25日朝鮮戦争が勃発。当初は「対岸の火事」とみていた中国も、マッカーサー元帥率いる連合軍が朝鮮半島を越えて旧満州に侵攻するのではないかとの恐怖もあって、同年10月北朝鮮軍を支援して参戦。同時に瀋陽や撫順も危険とみて、戦犯らをハルビンなどに疎開させており、対応は二転三転したという。

 

朝鮮戦争は53年7月になって休戦。翌54年3月、中国最高検察庁が1000人のチームを編成して日本人戦犯を捜査。ほとんどは戦争に対する加担が低いとして釈放、日本に帰還させ、残る45人に対する特別法廷が56年になって瀋陽で開かれた(一部は山西省太原でも開かれたらしい)。

 

▽映像に映しだされる日本人 戦犯当時の法廷が復元された陳列館。1階は裁判官、検察官、弁護団、そして被告たちが立ち、判決を聞く風景が蝋人形で再現されている。当時は2階が傍聴席だったというが、そこに立つと裁判風景を写した16ミリフィルムの動画がスクリーンに映し出されている。そこでは日本軍に暴力を振るわれたなどと証言する証人たち、証言を受けて「極刑にして欲しい」と土下座する日本軍元幹部の姿がダイジェストで流されている。

 証人たちの発言は方言が強くて、地元出身の通訳も分からないと言う。これを見ていると、裁判ではすべての公判を16ミリフィルムに収めているのではないかと思われるが、陳列館では説明できる人がいなかった。731部隊に関わった軍人の証言も一部あったが、残念ながら全容は分からない。この辺りが政治的に使う中国的な展示ということになるのだろう。陳列館の案内板も中国語、英語、日本語の3種で書かれているが、戦犯たちの犯罪行為を示した求刑資料や判決文などのパンフレット類はなかった。

裁判にかけられた被告戦犯45人の氏名、肩書きと罪状
裁判にかけられた被告戦犯45人の氏名、肩書きと罪状

▽帰還軍人の一部は反戦平和運動展開

 第2次大戦後、一時中国を支配した国民党政権下の軍事法廷では、B、C級戦犯に問われた軍人のうち100人以上が処刑されたが、共産党政権は戦犯に対して死刑を求刑しないこととしたため、全員が有期刑だった。判決を受けた45戦犯の姓名と当時の肩書が一欄となって出ている。将軍では鈴木中将の他、陸軍第59師団長だった藤田茂中将、同39師団長だった佐佐真之助中将などの名前がある。「偽満州国」関係では武部六蔵満州国国務院総務長官の名前が特別に書かれているが、その他にも「満州国」の役職を占めていた日本人が背戦犯となったことが分かる。

 

 中国撫順改造収容所などから帰還した軍人の一部は1957年9月24日、中国帰還者連絡会(中帰連)を結成。初代会長には藤田茂元第59師団長が就任した。中帰連は長らく反戦平和運動や日中友好運動を進めてきたが、2002年解散し現在は「撫順の奇蹟を受け継ぐ会」に引き継がれている。

 2014年と聞いて思い出すのは、同じ年の1月ハルビン駅構内に明治の元勲、伊藤博文を暗殺したとされる朝鮮の独立運動家、安重根を記念する「安重根義士記念館」が習近平中国国家主席の肝いりで造られたことだ。安倍晋三首相の対中、対韓姿勢が戦後埋もれていた日本の侵略戦争を掘り起こし、史跡として復活させているのではないだろうか。

 しかし私たちが訪問した時には中国人の姿は見られなかった。これは連合軍兵士の捕虜収容所旧址でも同じだった。15年戦争から第2次大戦に至る歴史を思い起こさせようとする政府、政治よりも経済中心となって無関心が広がる国民、その落差が垣間見られたといえば言い過ぎだろうか。

(続く)