『あらためてチェルノブイリを振り返る』第1話

「チェックポイント」での放射能チェック事故後30年弱経ても厳しく放射能管理するウクライナ、事故後5年も経たず、なし崩しに緩和している日本

ベラルーシの作家・ジャーナリストで、チェルノブイリ原発事故被害者の証言を集めたノンフィクション知られるスベトラーナ・アレクシエービッチさんが今年のノーベル文学賞を受賞した。旧ソ連時代の1986426日発生した、ウクライナ・チェルノブイリ市近郊のチェルノブイリ原発4号機で発生した史上最悪といわれた事故から来年で30年を迎える。この間、20113月には同じレベル7の東電福島第一原発事故が発生しているが、世界の関心は薄れがちだ。ノーベル賞授賞はこうした空気への警鐘に違いない。

 このチェルノブイリ発電所を見学したことがある。20136月のことだ。その時の記録を、共同通信を通じて地方紙に配信した。さらに14年に訪問するべく現地の日本大使館などともコンタクトして準備したが、ロシアのクリミア侵攻から始まったウクライナ危機で行けないままになっている。私たちのツアーをセットした現地の旅行会社のホームページも見つからないので、受け入れ体制が難しくなっているのだろう。そこで、あくまで1日だけのツアーの印象であるが、あらためて2年前に見たチェルノブイリの様子を報告する。

ウクライナ政府は事故25周年の2011年から一般のチェルノブイリ・ツアーを受け付け始めた。しかし簡単に見に行けるわけではない。日本からのツアー方法は、旅行代理店を通じて、現地でツアーを組んでいる旅行会社を調べる。公式ガイド付きの、決められた範囲のツアーしか認められていないが、1日ツアー、12日ツアーなどがあり、日本語通訳や英語通訳付きなど選ぶことができる。この旅行会社を通じてウクライナ非常事態省に申請、同省と原子力事業体の許可を得て、ようやくツアーに出かけることができる。

 マイクロバスなどで10数人がまとまって参加するツアーもあるが、日程と内容、日本語通訳の有無などを考慮し選んだところ、ツアー客4人、通訳1人、旅行代理店のコンダクター(兼運転手)1人で、コンダクターが借りてきたという友人の7人乗り中古車に乗るツアーとなった。

 一行はキエフから国道を北に向かい、まずディチャトキというところにある「30キロチェックポイント」に。キエフからチェルノブイリに向かう道は規制されていて、一般車が走れるのは1本だけ。この道路上に30キロと10キロのチェックポイントがあり、入退去時に放射能チェックを受ける。ただし最初に入るときは放射能ではなくパスポートの入念なチェック。入退去とも30キロのほうが厳しい。コンダクターのアンドレーによると「帰りのチェックで、靴が汚染されていると分かったら、靴を脱いで靴下で帰らなければならない」。実際に、そういう事件はあったという。

 ここで公式ガイドのイブゲン・ゴンチャレンコが合流した。ゴンチャレンコは旅行代理店の日本人スタッフによると約10人いるガイドの中でもトップクラスだそうで、2011年の福島原発事故の後、ドイツ・テレビ局のコンサルタントとして来日し福島に入ったという。

なぜ今でも二重にチェックしているのか。そう質問したところ、別の答えが返ってきた。チェルノブイリ事故当時、ウクライナも旧ソ連の中央集権下にあり、除染活動は中央政府が省庁を挙げて一斉に行った。その際、10キロ、30キロでシャットアウトし、除染が終了するまで(作業員を)外に出さなかったという。

 これに対し「日本では、コントロールしているのは見なかったし、聞いても答えがなかった。放射性物質は空から降ってくるだけではない。日本ではチェックしていなかったようなので、人や物に付いて散らばってしまったはず」と指摘する。

 

 チェックポイントは事故から30年近くたっても、放射性物質を30キロ圏外には極力出さないという強い規制の表れなのだ。だから退去するときに、何かの拍子で靴底に放射性物質が付いて取れなくなったら脱いで帰るしかなくなる。

 風で土壌に付いた放射性物質が飛び散るではないかという意見もあるだろうが、靴底や衣服に付いた放射能を持ち出すのは人為的な行為である。だから福島でも最近まで靴底や車のタイヤの放射性チェックを行っていた。

 

 10キロのチェックポイントは地域最大の街だったチェルノブイリ市から原発に向かう道にある。双方ともハンドフット・モニターでの検査だが、立ち入り禁止区域内の10キロポイントの方が緩やかだ。帰途、2つのポイントでチェックを受けた、全員セーフ。ただアンドレーの車だけは、30キロポイントで相当念入りにチェックされた。これはツアーの途中、降雨にあい、ぬかるみを走ったため。車が駄目だったらどうなるのだろうかと心配したが、10キロポイントでタイヤを洗ったのが功を奏し、最終的にセーフとなった。

 

 ゴンチャレンコが話していた「除染」作業。実際は、いくつかの町や村全体が埋設されるなど、大半のものが埋設処理された。作業にあたったのは「リクビダートル」といわれた人たちだ。全ソ連から集まったリクビダートルの総数は60万人とも80万人ともいわれるが、実数は不明。原発のプロ作業員から、「救国の英雄」として参加したボランティアまで様々という。ゴンチャレンコの話通りとすると、その大半が放射性物質を外に持ち出さないよう30キロ圏内に封じ込められていたことになる。線量チェックで大丈夫な人は外に出られたかもしれないが。日本では、事故対策そのものが関係ないとみなし参考にしなかったのではないか。だから人や物(自動車や荷物)などに付いて放射性物質が日本中にばらまかれているともいえる。

 それから、わずか2年で旧警戒区域に対する規制は一変した。2年間にどれだけの除染が進んだのだろうか。ロシアやウクライナ、ベラルーシなど旧ソ連で「チェルノブイリ法」が制定されたのは事故から5年後である。同じレベル7の過酷事故でありながら、あまりにも違う対応だが、大半の日本人が無関心であることに驚かざるを得ない。

20151021日)