「紀行」関東軍731細菌戦部隊の遺跡を訪ねて

(1) ハルビン「侵華日軍第731部帯罪証陳列館」細菌戦のための生体実験目的に部隊展開

 5月の連休を利用して「15年戦争と日本の医学医療研究会」(戦医研)などが主催した「731日本軍細菌戦部隊などの戦争遺跡を巡る旅」に参加、関東軍731部隊の本拠地があった中国黒竜江省ハルビン(哈爾浜)や、9.18事変(満州事変)の発端である柳条湖事件が起き、連合軍捕虜収容所などがあった遼寧省瀋陽などを見て回った。

 731部隊については、1982年に刊行された森村誠一著の『悪魔の飽食』が大きな反響を呼んだことで、名前だけは知っているという日本人は多い。中国人やロシア人、朝鮮人など拉致した人々を「マルタ」と呼んで生体実験をしていた(日本政府は認めていないが)らしいということも、かなり認識されている。しかし日本ではそれ以上踏み込んで問題にはならなかった。ナチスの蛮行を反省したドイツのように、日本の医学会が真剣に反省し

たとは聞いていない。昨年は戦後70年ということで様々な企画が展開されたが、マスコミでも731部隊に焦点を当てた企画は見当たらなかった。

 しかし中国では異なった。私たちがハルビンでまず訪れた「侵華日軍第731部隊罪証陳列館・新館」。日本が連合国側に敗戦を宣言した昨年8月15日にオープンした。瀋陽では連合国軍捕虜収容所の跡地に記念館ができているとともに、日本人戦犯を裁いた特別法廷も2000年代になって史跡になった。ハルビン駅内には昨年、伊藤博文を射殺した朝鮮人の安重根の記念館(記念室)も造られている。加害者側はいつも「未来志向」を口にするが、被害者は何をされたか忘れない。そのことをつくづくと感じた旅となった。

▽731部隊罪証陳列館

 ハルビンの731部隊旧址。市内から約20キロ、道路が整備された現在でも車で20分以上かかる平房(ピンファン)区にある。731部隊が展開した当時、何もない荒野の6.1平方キロメートルを特別軍事区域に指定し部隊が展開した。現在ハルビン市によって重点保護区として残っているのは旧本部棟やボイラー塔跡、凍傷実験室など23カ所。昨年オープンしたばかりの罪証陳列館新館は保護区の一角にあり、黒い外観のモダンな建物だ。中の照明も抑えた造りとなっている。

 展示の説明文は中国語と英語だけだが、日本語で説明するハンディ機が一人ひとりに渡

される。展示は細菌戦と731部隊、人体実験、細菌兵器開発、細菌戦の実施(ノモンハンなど)、証拠隠滅と裁判というブースに分けられ、731部隊が中国で最初に基地を置いた背陰河(ベイインホー)時代からハルビンに来て行った数々の「悪行」が紹介されている。

 中で目立つのはハルビン市731問題国際研究センターなどが米国で入手したレポートのコピーだ。731部隊の石井四郎隊長(軍医中将)らほとんどの隊員は1945年8月15日以前に本に逃げ帰っていたが、戦後米軍の聴取を受け、戦犯を免責してもらう見返りに詳細な細菌戦情報を米国に提供した。その一部が「Aレポート」「Qレポート」などと名付けられた米軍側の聴取記録。Aレポートは炭疽菌感染死亡者病理解剖所見、Qレポートはペスト菌感染死亡者病理解剖所見とされ、今日に至る米軍の秘密細菌戦計画につながっている。

 731部隊は1939年のノモンハン事件で細菌兵器を使用したほか、終戦直前には現在の明

治大学幾多校舎内にあった陸軍登戸研究所で開発した風船爆弾に細菌を搭載して米国まで

飛ばしたことが現在では分かっている。陳列館には陶器で作られた爆弾の弾頭部や風船爆

弾の2分の1模型や、細菌戦研究の中心となった「ロ号棟」発掘で見つかった様々な器具が展示されている。

▽展示で分かる元幹部と下級兵士の戦後陳列館では長年の沈黙を破って証言した元731部隊の下級兵士や軍属の発言が紹介されている。その一方で戦後、731部隊で行ったことを秘匿して「出世」した幹部たちも、主な役職とともに実名で列挙されている。下級兵士たちは日本に逃げる際に、石井四郎隊長から①いかなることがあっても前歴を秘匿②公務公職に就くべからず③隊員相互の往来を禁ず-の厳命を受け、破った場合の制裁を恐れて沈黙してきた(下里正樹「悪魔と人間の間」)という。

 しかし26年間にわたって731部隊を追いかけてきた陳列館の金成民館長によると、日本国内各地で隠れ住んでいる元兵士を探り当てて何度も通って証言を求める中、心を開いていったん証言したら、こわばっていた表情がさっぱりしてしまうことが印象的だったという。下級兵士にとっても731はつらい思い出だったのではないかとは金館長の感想だ。

 一方で戦後、出世した幹部たち。薬害エイズで有名になった製薬会社「ミドリ十字」の東京支社長だった731部隊第2代隊長・北野政次軍医少将は有名だが、陳列館には出口付近に北野元少将はじめ戦後功成り名を遂げた元幹部の実名が中国語と英語で大きく提示されている。ざっと数えたところ56人。中には戦後、日本学術会議や日本医学会をリードしてきた人もいる。北野氏はじめかなりの名前は日本国内の書物でも出ているが、こうして一挙並べられると関係者はショックだろう。公務公職に就くなという石井隊長の厳命は、幹部には関係なかったということが分かる。

▽細菌戦は生体実験とセット

 731部隊は1941年、表向きの名を「関東軍防疫給水部」と名乗っていた。このため正式名称は「防疫給水部」とする記事が多い。しかし、それは間違っていないかもしれないがこの組織を正しく説明していないことが分かる。

 常石敬一氏らの研究によると、石井四郎軍医は日本にいる頃から細菌戦を進めるべく研究するとともに、上層部に意見具申。1933年にはハルビン郊外の背陰河で「東郷部隊」あるいは「加茂部隊」との暗号名で細菌戦研究を始めた。東郷とは石井が「東郷太郎」の偽名を使っていたため、また加茂は石井の実家のある千葉県内の地名からきたとされている。この背陰河時代、既に捕虜を材料に炭疽菌実験を行い、人体実験の対象となった捕虜を「マルタ」と呼んでいたとの説もある。

 その後1936年6月25日、昭和天皇名で防疫給水部の設立が認可され、関東軍1539号命令

で731部隊のために120平方キロメートルにも及ぶ特別軍事区が設置された。ハルビンでも

背陰河の反対側に位置する平房に拠点を移した最大の理由は、森村誠一氏が推理している

ように、細菌兵器を製造し、実験できる広大な敷地があり、なおかつ秘匿にできる荒野だったことだろう。『悪魔の飽食』によって、平房区の広大な土地に731部隊の本拠地があったこと、同書に付けられた「満州第731部隊要図」でその規模が初めて明るみに出たこと、さらには『続・悪魔の飽食』に掲載された1940年撮影の航空写真で、その驚くべき規模が分かったことで、中国側の731部隊追及は中国政府が関わるレベルになった。

 森村誠一氏は『悪魔の飽食』で「(1982年当時の)現在、その所在場所についてさまざまなことが伝えられ書かれている満州第731部隊の、ここが正確な所在地である」(17ページ)と記載したが、私たちが実際にその悪魔性を認識できたのは、中心的な施設である「ロ号棟」の発掘結果を見てからと思った。

(続く)