岩手県宮古市田老「万里の長城」の教訓から考える津波「減殺」 1960年代の防潮堤ブームと同じ轍?

岩手県宮古市田老地区。東日本大震災で「万里の長城」と自他共に認めていた日本一の防潮堤が「無惨にも崩壊した」と有名になった地区だ。「安全、安心」と思っていた防潮堤が崩壊し「想定外の大津波、住民ぼう然」との見出しが震災直後、各紙に踊った。実際、昨年訪れた時には、崩壊した堤防や水門がまず目についた。しかし、今年あらためて訪問してみると「崩壊ストーリー」に違和感を覚えた。田老の防潮堤はX字を描いて造られていたが、最も内側のブーメランのような形をした防潮堤(第一防潮堤)にはほとんど損傷がなく、堤頂部を歩くことが出来たのだ。倒壊したのは1960年代に建造された第二防潮堤だった。何が崩壊し、どのような教訓を得られたのだろうか。東北各地に計画されている防潮堤を考える上で、あらためて田老の防潮堤を考える必要があると感じた。

 

 国土交通省によると東日本大震災前、岩手、宮城、福島3県の海岸線延長約1700キロメートルのうち約300キロメートルの海岸線に防潮堤が設置されていたが、そのうち約190キロメートルが全半壊した。その大半が1960年代、チリ地震津波被害を受けて造られたものだったという。倒壊した田老の第二防潮堤がそれに当たる。

 X字を描いた田老防潮堤は3期にわたって造られていた。第一防潮堤は1934年(昭和9)から1957年(昭和32)まで24年間。第二防潮堤は1962年(昭和37)から1965年(昭和40)までの4年間。第三防潮堤は1973年(昭和48)から1953年(昭和53)までの6年間の工事だった。今回の津波では防潮堤と防潮堤の間の塀の中のようなところで生活していた人たちの犠牲率が、元々の町の人たちよりも高かったという。

 もう一つのデータ。田老地区よりも宮古市街に近い鍬ヶ崎地区で「鍬ヶ崎の防潮堤を考える会」を立ち上げた共同代表の藤田幸右さんによると、防潮堤がない鍬ヶ崎の死者・行方不明者は65人。津波被災人口は約3200人なので、犠牲となった方は被災者50人に1人の割合となる。一方、田老地区は死者・行方不明者229人。被災人口は約3000人なので犠牲者は被災者13人に1人の割合となる。面している海の状況などがあり、単純に比較は出来ないが、検討する価値のあるデータではある。その田老地区の第一防潮堤。戦前から造り始め、完成まで24年かかったが、現在もほぼ無傷ということも再検討の対象にする必要がある。というのも、宮古市に近い山田町では「堤防がバタバタとあっという間に崩れ、すごい勢いで水が押し寄せてきた」という証言があるのだ(2011年3月31日付け熊本日日新聞)。

なぜ、崩れなかったのか。

 

 実は震災直後の2011年4月10日付けの河北新報に、津波被害から約1カ月経った各地の状況をまとめた企画で、田老防潮堤について次のような記事が載っていた。

タイトルは『宮古・田老地区』『防潮堤過信も』。

「旧田老町で防災を担当した宮古市職員山崎正幸さん(45)によると、防潮堤は本来、津波を完全に食い止めるためではなく、中心部への直撃を避けるため、山あいを流れる2本の川に津波を誘導することを目的に設計されたという。

 防潮堤の整備と同時にまちづくりの発想も大きく転換。中心部の土地は津波からいち早く避難できるように、高台に向かって盛り土した。碁盤の目状に整備した道路の交差点も人が曲がりやすくするため、直角にならないように「隅切り」した。

 山崎さんは『明治三陸大津波は波高が最大15メートルに達した(田老防潮堤の高さはT.P10メートル)。先人たちは防潮堤を築いても、なお津波被害が発生することを想定し、避難の大切さに目を向けていた』と指摘する」

 

 山崎氏は第一防潮堤について語ったのだが、記事には3つの防潮堤があったことが書かれておらず、崩壊した防潮堤の写真が各紙で大きく取り上げられていたため、「両側の2本の川に津波を誘導する」ということの本質が分からなかった。意味が分かったのは藤田氏がブログで紹介している『大津波を生きる』(高山文彦著、2012年11月30日発行)を読んでからだ。山崎氏の話では、第一防潮堤の陸側に避難道が整備されていたという事実も重要だ。

 

 高山氏によると、田老は「津波に勝とうとは決して考えなかった」。「必敗の覚悟」で防潮堤建設を始めたという。河北新報の記事に出てきた山崎正幸氏にあらためてインタビューし防潮堤建設の思想について聞いている。第一防潮堤について山崎氏は高山氏に語る。

「旧田老村方向に流れ込もうとしている波を防潮堤で受けて、長内川に流す。受け流す、という考え方なんです。津波に立ち向かうのではなく、自然に逆らわずに受け、勢いを減殺して、津波から逃げる時間を確保しようとしたんです」(P152

 

  この「自然に逆らわずに受け、勢いを減殺」という思想は、津波から「防災」するのではなく「減災」するということである。「逃げる時間を確保」するための防潮堤。従って避難道も同時に整備する。その思想は第二防潮堤で消えた、と高山氏は厳しく非難する。

「第2の防潮堤は、過去の教訓を見殺しにして築かれたものである。国家事業なのだから、せっかくの公共事業費を一円でも多くつかって町を潤そうと、その思惑ばかりが先に立ち、田老町はなりふり構わず突進した。第2の防潮堤は、長内川をまたぎ、漁港の裏を通って、田老湾のいちばん東端にひろがる青砂里という集落を守るようにして(…)岬の崖の直下までつないだ」(P186

 

 「国家事業なのだから」「せっかくの公共事業費を一円でも多く使って」。今進められている各地の巨大防潮堤も同じ発想から来てはしないか。過去の教訓を見殺しにした結果が、日本一の防潮堤を誇りながら、防潮堤のない鍬ヶ崎との犠牲者率の違いになったのではないだろうか。

 高山氏の著書の中で、山崎正幸氏は次のようなことも話している。

「津波防災については、人文社会、民俗学的な研究が大事になってくるんです。いざというとき、人はどのように動くのか、田老の津波の歴史を調べていくと、たくさんの貴重な事実が分かってきます」(P151

 

 私たちが今日、一番忘れているのが、山崎氏の言う「人文社会、民俗学的な研究」ではないだろうか。日本に津波が来襲して多大の被害を与えたのは明治三陸大津波が初めてではない。

 

 1854年の安政南海地震津波時の「稲むらの火」のモデルとなった濱口悟陵が、私財を出して和歌山県広村(現・広川町)に造った堤防がある。環境デザイナーの廣瀬俊介さんによると、この堤防は陸に上がってきた浸水に対し地面に傾斜を付けて水田に導くような形になっている。安政南海地震津波では広村全域に被害が出たが、1946年の昭和南海地震津波では堤外の水田に津波が流れ、水田が遊水池となって大半の家屋が被災せずに済んだという。

 田老の第一防潮堤建設に奔走したのは関口松太郎さんという村長だった(当時)。関口村長がどんな人だったのかは『大津波を生きる』に詳しいが、濱口悟陵と同じ考え方だったに違いない。

 廣瀬さんは宮城県気仙沼市小泉海岸一帯で「気仙沼津谷・小泉地区災害復旧代替案-生態系を基盤とした防災・減災」と題して、行政が強引に建設しようとしているコンクリート製の巨大防潮堤ではなく、「自然に還る海浜と川を擁する小泉」をつくる代替案を示した。濱口悟陵や関口松太郎氏と同じような考え方なのだが、行政は無視。せっかく自然が戻った海浜を埋め立ててT.P14.7メートルもの巨大防潮堤建設を強行している。

ただ「国家事業なのだから、せっかくの公共事業費を一円でも多く使って」という認識は「町を潤そう」という地元だけでない。専門家からも先人の知恵に学び、自然に逆らわず津波の勢いを減殺するという考え方はあまり聞かれない。このままでは1960年代と同じような防潮堤造りの轍を踏むことにならないだろうか。山崎さんが高山氏の著書の中で語った「人文社会、民俗学的な研究」が今こそ必要だ。

201582日)