限界集落の懸念高まる奥尻島

東日本大震災後の復旧・復興事業で浮上している巨大防潮堤計画に絡んで、北海道・奥尻島が再び脚光を浴びている。東北各地の沿岸や河川で計画されているのと同じようなコンクリート製防潮堤で島全体がぐるりと囲まれている奥尻を参考にしようと、東北沿岸の自治体幹部が多数訪れているのだ。その一方で震災前の2010年に奥尻島が話題になったのは、全国でも4番目に人口減少率が高いという人口動態データだった。全国4番目は、全道ではワースト1。防潮堤で「安全・安心なまちつくり」ができているはずの島で限界集落の恐れが出ているという衝撃の実態がありながら、東北の自治体幹部は何を学ぼうとしているのだろう。

 そんな疑問を抱き、奥尻の防潮堤の実態を見ようと8月初め奥尻島に向かった。札幌に2年間住んでいた時、北海道全域をほぼ回ったが、奥尻には行ったことがなかった。北海道南西部で函館からかなり離れており、同じ離島でも道北の利尻・礼文島よりも遠く感じていた。1993721日深夜に発生した北海道南西部地震(奥尻島地震)の被害の印象が強かったことも、足が遠のく一因となっていた。

 奥尻島は人口3000人弱(今年3月末で2921人)、島の一周は65キロ。函館から飛行機が11往復約40分で結んでいるほか、フェリーが奥尻港と対岸のせたなと江差を結んでいる。このうち約1時間35分のせたな-奥尻航路は夏期のみ11往復。残る期間は2時間15分で結ぶ江差-奥尻航路が11往復だけとなる。同じ離島でも、稚内と結ぶ利尻・礼文航路は13往復(今年4月から1便減便となった)あり、行きやすさが違う。

 フェリー料金も割高とあって観光客の人気は今ひとつ。このため奥尻町観光協会はせたな-奥尻-江差というルートを使って自動車で訪れる客に対して復路を無料とするサービスを打ち出している。しかし奥尻に向かったのは81日と夏休みの最中だったにもかかわらず、フェリーから降り立った客はまばらだった。それも観光バスでやってきた団体客を入れてだ。

 

「起債許可団体」に転落

 ここで1993年の北海道南西沖地震について触れておきたい。発生は721日午後1017分。震源地は奥尻島の北方の海底、地震の規模はマグニチュード(M7.8、最大震度は震度6の烈震と推定されている。推定というのは当時、奥尻島に地震計がなかったためだが、最近では震度7だったのではないかともみられている。津波は地震発生からわずか2~7分で到達した。高さは16.8~30.6メートルとされている。

 特筆すべきことは、地震発生から津波到達まで極めて短時間だったにもかかわらず、ほとんどの住民が避難行動を取ったことだ。夜の10時過ぎとなると、朝の早い漁師たちは大半が寝ている。しかし島民は激しい揺れとともに起き、直ちに避難した。今日の分析では、逃げ遅れた人は①(寝間着だったりしたので)着替えようとして手間取った②自動車で逃げ出したが、渋滞に巻き込まれた③第1波が収まった後、家にものを取りに帰り2波、3波に飲まれた-ためというケースが多かったとされている。

 阪神・淡路大震災が発生する前の被災であり、未曾有の地震・津波被害とあって、国や北海道から潤沢な復興費がつぎ込まれた。奥尻島の復興を語るときに欠かせないのが、被害総額よりも投入された復興・復旧費の方が多かったという事実だろう。被害総額約700億円に対して、投資額は約760億円。しかし実際はさらに上積みされる。全国から寄せられた義援金約190億円も復興・復旧につぎ込んだためだ。

 この約760億円の事業費目で一番使ったのは総延長14キロに及ぶ防潮堤だ。町役場の幹部たちは地震・津波被災後、岩手県田老町まで視察に出かけ、難攻不落の防潮堤という宣伝を聞き「これなら安全・安心」と建設に同意したという。

 また最も被害の大きかった南の青苗地区には、約262000万円かけて人工地盤の「望海橋」が建てられた。いざという時に青苗漁協で働いている人たちが階段を上り、屋上から高台に逃げられるようにと建設されたものだ。このほかにも地盤のかさ上げ(海抜6メートル)、高台移転(海抜20メートル)、42カ所の避難路などを建設、被災者には新規住宅建設の費用として1400万円支給、漁船も基金を使って買いそろえるなどの対策を取った。奥尻町は地震・津波被害から5年後の1998年に「完全復興」宣言をしたが、同時に基金も使い果たしてしまったという。

 奥尻町は復興費用のうち約158億円を負担し、過疎債や僻地債など地方自治体として使える町債を次々発行して償還期限の来た負債を先送りしてきたが、2006年度ついに町債発行に国の許可がいる「起債許可団体」に転落。2008年度から今年度まで「財政健全化計画」を実行中だ。1993年当時と異なり、北海道全体の予算も圧縮状態とあって、支援を求めるのも難しい。公共の雇用も最低限に抑えられ、若者は島の外に出ざるを得ない状態になっている。

 

限界集落化の恐れ

 どちらがニワトリでどちらが卵か複雑な問題だが、財政の逼迫と人口の激減、産業の衰退は一緒になって島の活性化を削いでいる。まず人口動態。島の人口は最盛期約9000人だったというが、今年3月末現在2921人。3分の1に減っている。さらに2040年までの予測を見ると、40年には人口は10年の半分、約1500人に。生産人口(15歳~64歳)は4分の1、高齢者人口が過半数(現在でも1000人程度が高齢者との推計)、14歳未満はわずか5%に減少するという。

 予測図を見ると将来は穏やかに減少するとの予測になっており、ちょっと高めではとの気もするが、島の人によるとさらにマジックがあるという。レーダーで北方域を警戒している航空自衛隊北部航空警戒管制団第29警戒隊(奥尻島分屯基地)の存在だ。基地は既に50年以上の歴史があり、自衛隊員、関連企業の従業員、その家族など400~500人が島で暮らしている。この人たちは一部を除いて純粋な島民ではなく、一定期間赴任してきただけだ。この人たちを引くと「純粋」な島民は2040年には約1000人。過半数が高齢であれば、共同体を維持していくことは困難という計算になる。

 この2040年という数字には意味がある。防潮堤に使用しているコンクリートの耐用年数はせいぜい50年とされており、この頃にはもろくなって修復したり、作り直さなければならなくなってくる。その費用を負担するのは地元の自治体だが、限界集落化した奥尻町に負担する余力は残っているのだろうか。

 コンクリート製の防潮堤によって景観が損なわれているためだろうか、観光客が足を止めるスポットもわずかしかない。島への往復に多額の交通費がかかるうえ、観光スポットも少ないとなると観光客の足は今後ますます遠のくだろう。観光客が減れば、土産物屋やレンタカーなどの会社も減るという悪循環に陥る。

 一方、漁業も不振が続く。インタビューした元町長の鴈原徹さん(1993年当時は町の総務課長だった。助役を経て2001年から09年まで町長)によると、450年前までは年間40億円ほどの水揚げがあったというが、現在は10億円を切り7、8億円程度らしい。北海道庁のデータによると、1993年の地震・津波被災までは従業員5人以上の水産加工業者は11社あったが、2009年には5社に減った。最盛期は日本海一帯を漁場としてタラやニシンなどを採っていたが、200カイリ問題などで沿岸漁業が主体となり、イカ、ホタテ、ウニなどが主体となっているという。町は公式には認めてないが、島民の中には沿岸漁業の不振と防潮堤の関係を指摘する声がある。

 

「あの坂へいそげ」

 東日本大震災、とりわけ奥尻島の巨大防潮堤のモデルとなった田老町の防潮堤がもろくも崩壊したことは島民にショックを与えた。「防潮堤は避難するための時間稼ぎでしかないよ」と奥尻津波館でガイドをしている安達さんは言う。

 だが島民の意識は20年近く「安全・安心」に凝り固まっていた。この意識を改革しようと、有志13人が20124月「語り部隊」を結成した。その一人、消防士の三浦浩さんは高校1年生だった1993年当時、青苗地区の倒壊した灯台のすぐ下に祖父母と一緒に暮らしていた。勉強中に激しい揺れを感じ、祖父母を連れて灯台に向かう坂を必死に上り、一命を取り留めたという。直ちに行動したのは、その10年前の日本海中部地震の経験があったからと言う。この地震・津波で奥尻島でも犠牲者が出た。祖父は子どもだった三浦さんに、地震が起きたらすぐに灯台に逃げろと言い聞かせていた。この教訓が大事なところで生きた、という。

 しかし、こうした理解は防潮堤で薄らいでいる。「今では防潮堤で直接、海が見えないこともあって、特に小中学校の先生に『安全・安心』意識が強く、避難ということへの理解が低い」と三浦さん。小学生や幼稚園児にも分かるよう紙芝居を作って、巡回している。タイトルは「あの坂へいそげ」。島内だけでなく、北海道各地を周り啓蒙に努めている。

 地震・津波被災からの20年について、起債許可団体に転落したころ町長として苦労した鴈原さんは「決して穏やかな道ではなかった」と述懐。東北の被災自治体の今後について「奥尻の経験からみて決して穏やかなものにはならない。もう少し耐えなければならない」とアドバイスしている。

 

(注)三浦浩さんの話と紙芝居の動画は北海道教育委員会のホームページから見ることができる。http://kyouiku.bousai-hokkaido.jp/wordpress/movie_chishiki/movie_chishiki_03/