横浜絹回廊 横浜舞台に絹(=生糸)と産業発展を展示

ヨコハマという街作りに決定的な影響を与えた絹(=生糸)に関係する展示が、横浜市内の3つの博物館で「横浜絹回廊」という統一テーマで開催されている。3博物館が展示テーマと日程を決めたのはだいぶ前だろうが、提示開始とほぼ同時にユネスコ(国連教育科学文化機関)の諮問委員会が群馬県にある富岡製糸場と絹産業遺産群の世界文化遺産登録が適当とする勧告を発表した(4月25日)とあって、横浜での展示にも関心が集まっているようだ。

 3博物館の展示は、横浜開港資料館が「蚕の化(か)せし金貨なり」(副題「明治大正の生糸産地と横浜」)、神奈川県立歴史博物館が「繭と鋼」(副題「神奈川とフランスの交流史」)、シルク博物館が「世界に羽ばたいたスカーフたち」。このうち開港記念館と歴史博物館の展示を見に行った。

 

 

 館展示のタイトルは明治後期に宮城県・佐野製糸場で歌われた「みくにの富を増すものは蚕の化せし金貨なり」という唱歌の一節から採ったものという。江戸時代から養蚕農家中心に作られていた生糸を求め開港記念て、横浜開港と同時に欧米各国から商人が集まったが、横浜の発展史の側面から見ると、生糸の独占的な積み出し港となったことが、横浜の街の性格を決めたことが分かる。

幕末から明治初頭にかけ欧米市場に輸出できたのは外国から来た商人だけだった。商人たちは関内の居住区だけでなく、現在の山下公園を臨む高台にかけて洋館を建設。そのハイカラぶりは明治の日本人に多大な影響を与えた。欧米からガス灯や電信・電話、新聞などがまず横浜に伝わり、東京や関西に普及した。何より鉄道が最初に開通したのは横浜と新橋間だった。外国商人に生糸を取り次いだ売込商は自力での輸出をもくろみ、そのための銀行も作り出した。関内にはこうした銀行の関係施設がいくつも残っている。

 

 

一方、幕末時代は農家の副業扱いで手繰りや座繰りという手作業で紡がれていた生糸は品質もバラバラで、欧州の業者から苦情が相次ぎ、明治政府は品質管理のモデルとすべく技術革新のために、明治5年(1872)に官営富岡製糸場を設立した。政府はその技術を積極的に奨励したことから数多くの製糸場が誕生した。その普及ぶりが開港資料館の展示で分かる。

養蚕が盛んだった上州や長野をはじめ、北海道を除く日本各地に製糸場が設立されている。特に福島県では二本松中心に地域としてブランドを作り、世界に展開したという。明治期の日本の輸出産業の主体が生糸だったことがよく分かる。

こうした生糸には生産者や生産地がそれぞれラベルをつくって貼り輸出したが、その多様でエキゾチックな意匠が県立歴史博物館の展示で見て取れる。歴博の展示は、フランス人の日仏交流史研究家、クリスチャン・ポラック氏がフランス国内などで収集したコレクションを公開したもの。

 

シルク関係だけでなく、明治初頭から大正にかけてのスナップなどが展示されている。中でもフランス人技師が設計した横須賀造船所関係の写真は貴重。造船所一帯はその後、日本海軍の基地となり戦後は米国に接収され、いずれも一般人立ち入り禁止のまま今日に至っているため。明治天皇は建設中の造船所を視察されたが、その時の隠し撮りが国際問題にまで発展しかねない事態になったという曰く付きの写真も展示されている。また職業写真家ではなく、日本に来た旅行客が撮影したスナップ写真なども展示されている。

こうした中で、最も興味を引いたのは原輸出店がリヨンにある提携企業と連名で発行した海外の輸入業者向けポスター。桑の葉を採ったり、機を織っている女性、日本から伸びた生糸を引っ張り、世界中につなげている女性などが描かれたポスターの下は「過去12年間の横浜生糸相場の変動」というグラフになっている。それを見ると1907年頃に相場は高騰したが、その後暴落するなど乱高下していたことが分かる。

この相場の乱高下が製糸業者の統廃合や製糸工場での女工たちの過酷な労働の一因ともなり、山本茂実の有名なノンフィクション「あヽ、野麦峠」で描かれたような女工哀史が各地であったのだろうが、残念ながらいずれの博物館でもそうした記述はなかった。

 

(了)