「紀行」関東軍731細菌戦部隊の遺跡を訪ねて(5)

捕虜となった兵士の死亡率が異常だった瀋陽捕虜収容所オバマ米大統領広島訪問で表面化した米捕虜への扱い

 遼寧省の省都、瀋陽市に第2次大戦中の連合軍兵士たちの捕虜収容所があった。収容されていた兵士(POW)の国籍は米国、英国、オーストラリア、カナダ、オランダ、フィリピンの7カ国。日本軍は日中戦争などで捕らえた中国軍兵士を「捕虜」として収容していなかったため、中国側は長い間その具体的な場所を知らなかったという。捕虜だった米軍の元兵士が1996年、瀋陽市大東区で「発見」した。

 瀋陽(当時は奉天)収容所は日本軍が戦争中に中国、台湾、日本本土などに約120カ所設けた捕虜収容所の一つだが、捕虜収容所を調査している「9.18事変(満州事変)歴史博物館」の王建学研究員によると、収容所全体の捕虜死亡率が平均4%だったのに対し、燎原(吉林省)などに置かれた分所を合わせた瀋陽捕虜収容所の死亡率は16%と群を抜いていた。

 瀋陽だけではない。日本軍に捕虜となった兵士はドイツ軍の捕虜などに比べ死亡率が異常に高い。国際人道法を遵守しない日本人の夜郎自大ぶりが、皮肉にも5月末のオバマ米大統領広島訪問に対する反発であらためて掘り起こされてしまった。

瀋陽捕虜収容所
瀋陽捕虜収容所

▽パーシバル英将軍も収容

  瀋陽市内の捕虜収容所跡。兵士たちが収容されていた兵舎は3棟あったというが、戦後長らく学校の寄宿舎に使われ、うち2棟は解体されていた。米軍元兵士の「発見」後、遼寧省政府は「瀋陽2戦盟軍戦俘管旧址陳列館」とし、残っていた1棟を保全、当時の蚕棚のような寝床などが再現されている。それでも「10年前は場所を探すのも一苦労だった」と、今回のツアーを企画した「15年戦争と日本の医学医療研究会」(戦医研)の西山勝夫事務局長(滋賀医科大学名誉教授)は述懐。米軍の元兵士らによる祈念碑ぐらいしかなかったという。

  今年5月に訪問した時は兵舎の他、便所・洗面棟が再現されていた。また陳列館や中国の「友人たち」を紹介する建物もあった。残っていた兵舎は建築面積1165平方メートル。当時多かったセメント、タイルを使った木造二階建て。各部屋には蚕棚のような寝床が並び、一つの寝床に10人余りが寝たという。一方「友人たち」のコーナーには鹿地亘と緑川英子という日本人の名前があった。

  瀋陽捕虜収容所に収容されていた最も有名な軍人は、英陸軍のアーサー・パーシバル中将だろう。1941年英極東軍司令官に着任したが、翌42年シンガポールが日本軍の手に落ち、英軍史上最大規模とされる13万人余りの兵士を率いて、山下奉文将軍に降伏した。パーシバル将軍は1945年9月2日、東京湾に浮かぶ米戦艦ミズーリ甲板で日本が連合軍に無条件降伏文書に調印した際、調印式に陪席して話題になった。

 

 シンガポールやマレーシアなどで捕虜になった連合軍兵士たちは十分な食料を与えられないままマレー半島を徒歩で縦断させられ、この時点で米兵1522人、フィリピン兵約2万9000人が死亡した。「バターン死の行進」と呼ばれ、第2次大戦後に戦争犯罪と断罪された。生き残った捕虜たちは「ヘルシップ(地獄船)」と称された鳥取丸に乗せられ、台湾の高雄経由で朝鮮の釜山に。瀋陽捕虜収容所を長年取材してきたジャーナリストの西里扶甬子さんによると捕虜のうち500人は高雄で下ろされ、日本本土に向かったという。釜山に着いた捕虜たちは鉄道で朝鮮半島を縦断し、瀋陽に着いた。最初の収容所は柳条湖(満州事変の勃発地)に近い元国民党軍の本営のあった北大営に置かれた。捕虜の第一陣が瀋陽(奉天)に到着したのは42年11月11日だったという。

 陳列館の資料では、瀋陽捕虜収容所に収容された兵士は最も多かった時で約2000人。西里さんによると252人の死亡が確認されているが、大半は42年11月から翌43年1月に集中しているという。

これについて王研究員は①苛酷な強制労働②冬季の寒さなどの自然環境③水が合わない(中国旧満州一帯は硬水)-などが複合していると推理している。

捕虜収容所を管理していた関東軍は43年に現在陳列館のある地に敷地面積約5万平方キロという広大な面積の収容所を建設した。

 

▽軍事工場での強制労働

なぜパーシバル将軍はじめ多くの連合軍兵士がシンガポールやマレーシアから遠く離れ

た「満州」まで移送されたのか、肝心の日本軍の資料は残っていないとみられるので推測するほかはないが、西里さんは当時の奉天には戦闘機工場がありそこで働かせる目的ではと推理している(以上「731部隊の秘密を追って 奉天捕虜収容所で何があったか」。2008年戦医研会誌9巻1号より)。

強制労働については、戦闘機関係かどうかは不明だが「満州工作機械」(MKK)とい

う日系の工場で働かせていたという記録や写真が残っている。戦争捕虜を直接敵国の戦争目的に寄与させる労働行為はジュネーブ協定で禁止されているが、日本政府及び日本軍は当時条約に対してあいまいな対応を表明していた。

生き残った元兵士らの証言によると、かなりの捕虜が命がけで機械を動かなくしたり、微妙に寸法をずらすなどのサボタージュをしていたらしい。そうしたサボタージュを行った捕虜のうち150人が1944年劣悪な環境の岐阜県神岡の亜鉛鉱山に送られている。ノーベル賞で話題になったカミオカンデの裏の歴史でもある。

 

 日本軍は捕虜たちの手紙などを徹底して取り締まったが、半面ポンチ絵には比較的寛容だったらしい。何人もの捕虜が描いたポンチ絵が陳列館に飾られている。それを見ると、いかに劣悪な環境だったかが分かる。簡単なワナで鳥を捕まえるポンチ絵や、野草やヒマワリの種を探す兵士たちの姿。戦争末期には食料支給が滞り、骨と皮ばかりになった捕虜たちの姿が何人もの兵士によって描かれている。

 

▽731部隊の極秘「予防注射」作戦

  この収容所が注目されるのは、異常な捕虜死亡率もさることながら、それらに関東軍第731部隊が深く関わっている疑いがあるからだ。陳列館には「防疫」に訪れた関東軍防疫給水部(731部隊の表の名前)とおぼしき「白衣の訪問者」の写真が3点展示されている。

またポンチ絵の中にも「日本人の医者は病気になった捕虜に『注射』をした」というウィリアム・エドガー元兵士の作品が飾られている。

  

 当時、瀋陽には細菌戦に深く関わっていた日本軍医が支配する2つの病院があった。一つは満州医科大学。悪名高き石井四郎に続いて第2代731部隊長となった北野政次軍医少将はこの大学で教鞭を執っていた。もう一つは奉天陸軍病院。いずれも731部隊と連携して細菌戦に関わった疑いが濃厚とされている。

  瀋陽の捕虜収容所で何が行われていたのか。西里さんは元捕虜らへの取材で「白衣の一団」による捕虜への「予防注射」は12カ月間に18回も行われていたことを突き止めた。エドガー元兵士の描いた注射との関係は不明だが、関係者によると肝心の治療は行われなかった。さらに捕虜は毎月1人当たり50ccの血液を採取されたという。採血の目的は不明だが、最も考えられるのは「風船爆弾」の材料だ。

 

 この「予防注射」は関東軍作戦命令(極秘)に基づくものだったことが、1984年明らかになった。この年、段ボール箱に入れられた資料が神田の古書店で売りに出された。売ったのは、毒ガス戦の専門家で戦後、第一復員省、厚生省を経て自衛隊衛生学校長まで務めた井上義弘・元軍医少佐の遺族。作戦命令書は段ボール箱の中から見つかった。感染症などの罹患を避けるための予防注射なら、極秘の作戦命令で行う必要はない

 。731部隊が行った「予防注射」。ハルビン郊外の731本隊でのマルタを使った数々の「実験」を思えば、同じような実験を東洋人ではなく白人、それも戦争相手の英米国人相手に行ったとみるのが自然ではないだろうか。

瀋陽兵舎
瀋陽兵舎

▽宣戦布告しながら戦時国際法遵守せず

  戦時国際法に、傷病者および捕虜の待遇改善のために設けられた国際条約としてジュネーブ条約がある。「戦時軍隊における傷病者の状態の改善に関する条約」「赤十字条約」ともいわれ、1854年に赤十字国際委員会(ICRC)が提唱した。4つの条約からなり、1929年には「俘虜の待遇に関する条約」が、1912年1月13日公布の「陸戦の法規慣例に関する条約」(ハーグ条約、あるいはハーグ陸戦条約)を補完する形で作られた。

  日本は条約に署名はしたものの、軍部や枢密院の反対で批准しなかった。戦後になって批准したのは、日本が国際復帰する際の条件になったためだ。日本は米英中心の連合軍に対してきちんと宣戦を布告したはずなので、戦時国際法を遵守する義務があったが、戦争開始後米国や英国から第3国を通じて行われた問い合わせに「apply mutatis mutandis」と答えている(1942年1月29日)。辞書では簡単に「準用」と訳され、多くの資料でも「準用と答えた」とされているが、正確に言えば「必要な変更を加えて用いる」となる。動詞は「用いる」なので、米英とも日本がジュネーブ条約やハーグ陸戦条約を遵守すると理解したが、日本側は「必要な変更」に重点を置いた。東条英機も東京裁判で「準用」の意味を問われ「自国の国内法規および現実の事態に即応できるよう条約に必要な修正」を加えることと答えたという。ここに、先進国だったらあり得ないような、日本の捕虜虐待の本質があったのではないだろうか。

 

▽捕虜となった米軍兵士の4割が死亡

  オバマ米大統領の広島訪問に際して、米退役軍人会は「日本軍の捕虜になった米兵の4割が殺された」として原爆投下に謝罪するべきではないとの声明を発表した。実際のデータを見ると、日本軍の捕虜になった米兵は約3万6000人。その38.2%が死亡した。この中には「バターン死の行進」などの苛酷な虐待が含まれる。一方、ユダヤ人ホロコーストで残虐性が指摘されたドイツ軍。捕虜になった米兵約9万3000人のうち死亡はわずか1.1%にすぎない。

  さらには日中戦争の中国人捕虜について、日本は「中国人の、捕らえられたる者は俘虜として取り扱わないことを1938年に決定した」と日中事変当時参謀本部第1部第3課長だった武藤章は東京裁判の尋問調書で述べている。こうした戦時国際法を無視した捕虜の虐待について、西里さんは「捕虜をモルモットにして良いとする、当時の軍人や医学者の考え方があった」と指摘する。731部隊の「マルタ」に対する生体実験などは、この「考え方」が日本の医療関係者に広く染まっていたことを物語っている。

 

 日本は2004年、一連の事態対処関連法制整備の一環として「武力攻撃事態における捕虜等の取扱いに関する法律」(捕虜取扱法)を制定。国際人道法の的確な実施を確保することを目的と定めた。しかし安倍内閣による一連の安保法制整備の中で、戦前への回帰姿勢が色濃く出ている。再び国際法を「準用」に後退させるのか、「遵守」の姿勢を見せるのか。安倍晋三首相を見ると疑念を強めざるを得ない。

 

▽不可解な収容所軍医の死刑

  この瀋陽捕虜収容所で、おかしなことあったことを知った。同収容所で戦犯に問われた人たちのうち、ただ一人、桑島恕一という軍医大尉だけが死刑になっていたことだ。桑島大尉は瀋陽収容所の後北京で勤務し、戦争直後引き揚げて、仙台で暮らしていたが、GHQに逮捕され、そのまま上海の米軍戦犯法廷で裁かれ死刑となった。

b工藤美知尋という海軍史家が最近『軍医大尉 桑島恕一の悲劇』という本を出したそうで、そこには詳しく書かれているのかもしれないが、裁判では本人尋問も行われず、ほとんど審理らしい審理がなく死刑宣告されたとされている。

 

 この桑島大尉はエドガー元兵士が漫画に描いた「日本人の医師」と同一人物かどうか不明だが、捕虜収容所で「防疫活動」をしていたのが731部隊員だったことはほぼ間違いない。731部隊員は全員、細菌戦のデータを極秘に米軍に提供することで免罪となっている。同じ時期、なぜ桑島大尉だけが処刑されたのか。731の裏を知っていた第三者だったらというのは、うがち過ぎだろうか。(続く)