「紀行」関東軍731細菌戦部隊の遺跡を訪ねて(3)

(3)暗殺と小パリハルビン点描、戦前の日本人が感じた欧州の香り

 初めて訪れる土地の印象、特に海外での印象は、その時の天気や気候に大きく影響されやすい。731ツアーで訪れた中国東北部、黒竜江省首都のハルビンはまさにそんな都市だった。関西国際空港から中国南方航空機で着いたハルビン太平国際空港。横殴りの雨が降っていたが、航空機と空港ビルを結ぶボーディングブリッジはない。1台のバスが搭乗口と空港ビルを往復して旅客を運んでいだが、後部座席に座っていた乗客は搭乗口でしばらく待たされる。バスは空港ビルのすぐ脇に着くわけではない。雨でできた水たまりの中を走ってビルに入る。施設も1960年代にタイムスリップしたかのようで、入管や税関の職員の衣装や雰囲気も古めかしい。といって、何かがあるというわけではないが。何となく暗い第一印象だった。

 空港はハルビン市街から約33キロ離れているそうだ。一方、731部隊の本拠地が置かれていたハルビン市平房区も約20キロ離れているという。私たちを乗せた貸し切りバスは空港から高速道路に入り市内に向かったが、途中大きな交差点を右折。その間、農地ばかりのような景色が雨の中に流れ、着いたホテルも731遺跡の直ぐそば。同じようなホテルのほかは、侵華日軍第731部隊罪証陳列館の関係の建物ぐらいという寂しい光だった。人の姿も見当たらず、戦前に「東洋の小パリ」とうたわれた雰囲気は全く感じられなかった。

 しかし市街地に入ると雰囲気は一変する。天気が回復した後は路上に人があふれ、大小様々な車が行き交い、車道を渡る人々にクラクションを鳴らし続ける。いたるところで渋滞が発生。ひと時代前の自転車に替わって、電動バイクと思しき2輪車が歩道と車道の区別なく走り回っている。繁華街の店舗には色鮮やかな商品が並び、路上の店舗にはマンゴーやバナナ、トマトなどが山積みだ。

▽いわく付きの「安重根記念館」

 ハルビン(かつてはハルピンとも言われた)と聞くと、多くの日本人は明治の元勲、伊藤博文が暗殺されたところを思い浮かべるだろう。伊藤博文が朝鮮の独立運動家、安重根(アン・ジュングン)に拳銃で撃たれたとされたのは、1909年10月26日早朝。ハルビン駅のホーム上だっ(「とされた」と記したのは、暗殺に陰謀説が根強くあるため)。

 伊藤はロシアの蔵相ウラジーミル・ココツェフと会談するため、ロシアの勢力下にあったハルビンに列車で来て、車内で朝食をとった後、ロシア軍を閲兵するためホームに出たところを安重根に拳銃で3発撃たれ死亡したという。そのホームを見渡す元の貴賓室が2014年1月19日「安重根義士記念館」に生まれ変わった。2013年に訪中した朴槿恵韓国大統領が習近平中国主席に記念碑の設置を要望。習首席が記念碑以上の記念館とした、いわくつきの施設だ。

 昨年までは多くの人が訪れたといわれるが、見学した時には私たち日本人以外はほとんどなし。ホームの「暗殺現場」とされる個所には印があったが、荷物を運ぶ車が通ったりして、よく分からない。戦前までは円形のガラスがはめられ柵で囲われており、ハルビンを訪れた日本人が見学したという。ハルビン駅は鉄道交通の要所となっているため、ひっ

きりなしに案内が流れ、多くの人が窓口に並んでいたが、戦前も今も暗殺現場は地元にとっては特段興味を引く場所ではないようだ。

 安重根は日本ではテロリスト扱いだが、南北朝鮮では李舜臣と並ぶ英雄だ。しかし当時から本当に安が伊藤を撃ったのかの疑問は出ていたらしい。まず安が持っていた拳銃では使えない弾で撃たれている。射撃方向も上からとの目撃情報がある。何よりロシア軍兵士の閲兵中、兵士たちの背後にいた安が並んでいる兵士の隙間から撃ったという話が嘘くさい。

 米国のケネディ大統領暗殺事件並みの陰謀を感じるのだが、陰謀となると誰がやったのか。今となっては不明だ。しかし一番儲けたのは日本だっただろう。伊藤博文は撃たれた直後、誰がやったのかと聞き朝鮮人との答えに「馬鹿なやつだ」と話し、それがダイイングメッセージとなった。伊藤が危惧したとおり、日本政府は翌1910年朝鮮を併合した。

▽スマホ族全盛の中央大街

 それから約30年後の1937年。大正から昭和にかけての文豪、室生犀星は初めての海外旅行で満州、ハルビンを訪れた(犀星唯一の海外旅行)。その時に書いた詩集が『哈爾浜詩集 大陸の琴』(1938年発表)。特に喫茶店マルスでのロシア娘の様子を描いた「君子の悲しみ」は有名だ。マルスがあったのはロシア時代「キタイスカヤ」(中国人の街の意味)と呼ばれていたハルビン最大の繁華街。向かい側には淡谷のり子が定宿にしていたというモデルン・ホテル(英語読みするとモダン・ホテル)があった。今も名前は変わっているが、同じように残っているそうだ。

 室生犀星のかなり前からハルビンは「東洋の小パリ」と呼ばれ文人や音楽家が足繁く訪れていたという。旧満州の中でロシアが造って西欧の香りを出していた町はハルビンと大連といわれる。「アカシアの大連」「ニレの都ハルピン(当時)」とも称された。

 インターネット上に「満州写真館」というウェブサイトがある。公開された写真などを集めたものらしいが、その中のハルビンの写真を見ると「夜のハルピン」という絵はがきのシリーズが載っている。現地を訪れた人が購入して持ち帰ったものらしいが、撮影した写真を彩色(撮影自体は昼間らしい)して夜のネオン瞬くキタイスカヤを描いている。登場してくる女性は皆白人、当然ながらロシア人だろう。欧州に行くのに旅客船や鉄道で1週間以上かかった時代。1932年には「満州国」もうまれている。日本の領土でありながらヨーロッパのムードを楽しめるということだったのだろうか。

 そうした異国情緒が楽しめたキタイスカヤ。現在は「中央大街」と名付けられているが、ハルビン最大の繁華街であることには間違いない。夜の中央大街をツアーの人たちと散歩した。昔から残っている建物がある一方、新しい店舗も。行き交う人は中国人ばかりだ。そして若者たちは一様にスマホを片手に。トイレ休憩でケンタッキーフライドチキンの店に入ったが、そこには若者たちがチキンを食べコーラを飲みながら自分のスマホやタブレットに黙って見入るという万国共通の風景があった。

(続く)