「埋もれた歴史遺産を訪ねて」 続「ガラ紡」

「ガラ紡」は自動織機技術革新のルーツだった        交錯する2人の発明家、豊田佐吉と臥雲辰致

 明治初期、愛知県三河地方で隆盛を誇った「ガラ紡」。臥雲辰致という長野県の人が発明し、明治10年(1877)の第1回内国勧業博覧会で最優秀の「鳳紋賞」を受賞した「世界に類例のない独特の紡績法」だったが、人々の記憶からほとんど消えていた。今年6月、「埋もれた産業遺産を訪ねて」「明治の産業革命に一役買った『ガラ紡』 紡績が盛んな三河で発展した綿糸製造機」を執筆した際も、豊橋市の愛知大学まで出かけてようやく現物を見ることができた。

そう思っていたら、何と名古屋市にも現物と複製があった。場所は名古屋駅北にあるト

ヨタ産業技術記念館。かつて豊田佐吉が総帥として開発と販売に全力を注いだ旧豊田紡績本社工場跡に1994年開設した。当初の名前は産業技術記念館だったが、2014年開館20周年を機にトヨタの名前をかぶせられた。記念館は大きく「繊維機械館」と「自動車館」に分かれているが、ガラ紡は繊維機械館に置かれている。

記念館の説明によると、手動の1台は日本で2台しか残っていない手回し式ガラ紡のうち日本綿業倶楽部(大阪)に保存されている30錘のガラ紡機を複製したもの。もう一つは豊田市の大原ガラ紡工場で約60年間稼働してきたものを豊川工業高校の生徒たちが修復したもの、という。手回しのガラ紡は、ハンドルを回すと駆動軸と綿を詰めたつぼが回転、撚りのかかった糸が上に巻き取られていく仕組み。この時にガラガラ立てる音が「ガラ紡」のゆえんとなったといわれる。訪問した人は誰でもハンドルを回すことができるので、この20年間に数多くの人がガラガラという音を聞いてきたのだろうが、あまり関心を集めなかったようだ。「ガラ紡」は自動織機技術革新のルーツだった

交錯する2人の発明家、豊田佐吉と臥雲辰致明治初期、愛知県三河地方で隆盛を誇った「ガラ紡」。臥雲辰致という長野県の人が発明し、明治10年(1877)の第1回内国勧業博覧会で最優秀の「鳳紋賞」を受賞した「世界に類例のない独特の紡績法」だったが、人々の記憶からほとんど消えていた。今年6月、「埋もれた産業遺産を訪ねて」「明治の産業革命に一役買った『ガラ紡』 紡績が盛ん

な三河で発展した綿糸製造機」を執筆した際も、豊橋市の愛知大学まで出かけてようやく現物を見ることができた。

そう思っていたら、何と名古屋市にも現物と複製があった。場所は名古屋駅北にあるト

ヨタ産業技術記念館。かつて豊田佐吉が総帥として開発と販売に全力を注いだ旧豊田紡績本社工場跡に1994年開設した。当初の名前は産業技術記念館だったが、2014年開館20周年を機にトヨタの名前をかぶせられた。記念館は大きく「繊維機械館」と「自動車館」に分かれているが、ガラ紡は繊維機械館に置かれている。

記念館の説明によると、手動の1台は日本で2台しか残っていない手回し式ガラ紡のうち日本綿業倶楽部(大阪)に保存されている30錘のガラ紡機を複製したもの。もう一つは豊田市の大原ガラ紡工場で約60年間稼働してきたものを豊川工業高校の生徒たちが修復したもの、という。手回しのガラ紡は、ハンドルを回すと駆動軸と綿を詰めたつぼが回転、撚りのかかった糸が上に巻き取られていく仕組み。この時にガラガラ立てる音が「ガラ紡」のゆえんとなったといわれる。訪問した人は誰でもハンドルを回すことができるので、この20年間に数多くの人がガラガラという音を聞いてきたのだろうが、あまり関心を集めなかったようだ。

▽臥雲辰致の7桁計算器

しかし明治時代、豊田佐吉は違ってた。

トヨタ産業技術記念館には旧豊田紡績本社工場跡の展示館の他に、構内に独立して2つの建物がある。トヨタグループ館と豊田商会事務所だ。トヨタグループ館は旧豊田紡績本社事務所を修復したものであり、商会事務所は佐吉がここに居住しながら自動織機の開発に心血を注いでいた建物という。ほとんどの見学者は訪れないようだが、商会の中を見学していて発見した。

1階事務室に展示されていたのは、作家邦光史朗が中日新聞に昭和61年(1986)年1月から1年2カ月連載していた『小説豊田佐吉  天馬無限』に毎回描かれていた小島俊男画伯の挿絵414点。「佐吉の一生が分かるな」程度の認識で眺めていたら、「第83回  臥雲辰致の計算器」というタイトルの絵に気付いた。

「日本初の7桁計算器」とその「内部構造」というスケッチが描かれている。この83回の前後は東京・上野で開催された第3回内国勧業博覧会に佐吉が駆け付け、懸命に技術の習得に努めた話であり、83回には次のような説明がある。

「佐吉の(博覧会見学の)目的は最新機械と歯車の製法にあり、歯車を使った『臥雲辰致の計算器』もお目当ての一つだった。全体を眺めてから細部を観察、機構を理解した上で写生した。夢中になって機械に触れ、監視人にどなられた」。

こうした細かい説明は小島画伯ではなく、著者の邦光氏が取材して書いたものと思われる。佐吉が語ったか、記録に遺していたものが元になっているのだろう。この中で「機構を理解した上で写生」というのがすごい。

この第3回内国勧業博覧会が開催されたのは明治23年(1890)である。 明治10年(1877)の第1回博覧会から13年経っている。臥雲辰致の衰えない発明意欲と、その成果に驚かされるが、若干23歳でその仕組みを研究しようとした佐吉にも驚く。佐吉が最初の発明となる「豊田式木製人力織機」を発表したのは、同じ明治23年だった。臥雲辰致の歯車から何を学び取ったのか。明治維新後の日本の産業革命をリードしてきた繊維産業。その基盤となったのが紡績機だった。この紡績を巡る2人の発明家の動きはドラマチックで迫力がある。豊田佐吉は展示された計算器を十分に触って確かめることもなく、計算とそれを支える歯車の仕組みが分かったらしいが、どういう仕組みか教えてほしいものだ。

(2016年9月20日)