「埋もれた歴史遺産を訪ねて」

東洋一を誇った巨大鉄塔による国際通信

対潜水艦用通信で戦後も米軍が使用

愛知県の依佐美送信所

 

 東京タワー(高さ333メートル)が建つまで「東洋一」を誇った高さ250メートルの鉄塔が8基、愛知県刈谷市の郊外に並んでいた。その鉄塔は解体される前は東海道線からも見えたという。しかし残念ながら、愛知県人でも「東洋一」のものがあったことを知っている人は少ない。1929年(昭和4)、愛知県碧海郡依佐美村(現在は刈谷市高須町山ノ田)に建設された半官半民の日本無線電信株式会社(現在のKDDIの前身)の依佐美送信所のアンテナ線を張っていた鉄塔がそれである。だが、この長大なアンテナは完成当初から埋もれる運命にあったらしい。

▽欧州に向けた最初の無線通信

 依佐美送信所は日本では福島県原ノ町送信所(対米向け)に続いて建てられた超長波(注・資料では長波と超長波の表記が混在するが、周波数は超長波の領域とみられる)による対欧州への無線通信基地である。戦後は米軍に接収されていたが、1994年(平成6)日本に返還され、3年後の1997年(平成9)8基の鉄塔は撤去されてしまった。送信所の本館・送信局舎なども2006年(平成18)までに解体された。

 依佐美送信所の核となる超長波(VLF)の周波数を発生させる高周波発電機は、ドイツから輸入したテレフンケン式。高周波発電機で5.814kHzの周波数を発生させ、周波数三倍器(トリプラ)で通信に必要な17.422kHzにさせる。この周波数に乗せた通信電文を巨大なアンテナまで運び、欧州に向かって発信する。

 高さ250メートルの巨大鉄塔は500メートルの間隔で2列に並び、1列に4基ずつ480メートルの間隔で建てられた。平野部で、これだけの広い敷地があり、なおかつ欧州方面に向かって電波を遮る山などがないことが、依佐美に建てられた理由だったという。アンテナは相対する鉄塔間に4本の吊下線を張り、これに逆L型の16条のアンテナを吊り下げたという。1927年(昭和2)工事を開始し、1929年(昭和4)ワルシャワへの送信業務を開始した。日本で初めての欧州向けの直接送信だった。続いてドイツへも送信を行ったが、実は同時に短波での送信業務も始めていた。

 長波(LF)やVLFは雑音が多い周波数で、主に地表を流れ、電波を発生させるには大量の電力が必要だが、長距離を伝わっても減衰が少ないという利点がある。一方の短波は電離層に電波を発信させて、反射した電波が伝搬して遠方まで伝わる仕組みで、アンテナは長波や中波に比べて小型で済む。今でもラジオの国際放送では短波が使われているように、遠距離通信に適している。

▽外国資本の支配下にあった国際通信

 莫大な費用をかけて超長波による無線通信を行おうとした理由は、明治初頭から国際通信の主流となっていた海底ケーブルを使った通信が外国資本に支配されていたことである。元日本電信電話公社(現NTT)社員だった石原藤夫氏が著した「国際通信の日本史」は副題が「植民地化解消へ苦闘の99年」となっている。石原氏によると、日本の国際通信は1870年(明治3)にデンマークに本社のある「大北電信会社(グレート・ノーザン・テレグラフ・カンパニー)」との間で長崎ーウラジオストク間の海底ケーブル敷設と陸揚げを認めた時から外国資本の支配下に置かれたという。日本国内で最初の電信が始まったのは1869年(明治2)の東京(築地)ー横浜(裁判所)間であり、まだ最初の鉄道も走り出していなかった(明治5年)時代のことである。

 石原氏によると、この大北電信会社による支配が完全に終わったのは1969年(昭和44)。日本海ケーブルが直江津ーナホトカ間に敷設され、大北電信会社の長崎局および長崎ーウラジオストク間のケーブルが完全廃止となった時という。

 石原氏の著書は不思議なことに、国際無線通信への記述がほとんどないが、依佐美送信所は当時の通信官僚が国際通信の不平等打破への思いをかけたものであることは間違いなく、工事のための専用鉄道まで敷設(工事完了後撤去)して建設していた。

 

▽超長波はもっぱら対潜水艦通信に

 超長波通信は、莫大な電力を必要とする一方、通信できる情報量が限られてしまう。このため、依佐美でも短波通信が主流になったが、超長波は水深20~30メートルでも届くという特色があり、第2大戦前に海軍が接収。主に潜水艦との交信に使われた。1941年(昭和16)12月8日の太平洋戦争開戦時の「ニイタカヤマノボレ1208」という有名な指令の対潜水艦用通信は依佐美送信所から発信されたという(短波は千葉県の船橋送信所)。

 戦後の1947年(昭和22)、GHQが鉄塔の解体命令を出し、送信所を運用していた国際電気通信も解散させられたが、1950年(昭和25)朝鮮戦争勃発とともにGHQは逆に解体中止命令を出し、在日米軍が接収。1993年(平成5)まで米軍の対潜水艦用通信基地となった。翌94年(平成6)日本に返還され、8基の鉄塔や送信所本館などが撤去・解体されたが、2007年(平成19)「フローラルガーデンよさみ」内に記念館がオープン。鉄塔の下部25メートル分と鉄塔を支えた碍子、高周波発電機やトリプラなどが展示されている。送信装置を含めた旧依佐美送信所関連遺産(10点)は2009年(昭和21)「近代化遺産」に認定された。