「埋もれた歴史遺産を訪ねて」

日本初の電気鉄道と水力発電所(1)

忘れられた京都復興? 「大政奉還150年」イベントの陰で

 

 昨年たまたま名古屋市内をドライブしていて「市電博物館」を見つけ訪問したことがあった。その時、聞いたのは名古屋の路面電車が日本で2番目という話だった。「では日本初は?」と係の人に聞いたところ京都との答だった。文明開化に伴う、こうした近代化の最初は東京と思っていたので、京都が最初というのは意外だったが、同時に「なぜ京都」とずっと気になっていた。

 今回、京都を訪問する機会があり、興味を持っていた「日本初の市電」の跡を見に行った。今年は大政奉還150年という。JR東海は「冬の京の旅」を大宣伝し、町には観光客があふれていたが、「市電」の関係であったのは小さな碑と、いくつか残っている電車ぐらい。立ち寄る人も見かけなかった。「京都復興のシンボル」だったはずなのだが。

京都駅北口にある「電気鉄道事業発祥の地」の碑
京都駅北口にある「電気鉄道事業発祥の地」の碑

▽日本最初の電車は京都駅-伏見間

 京都で日本最初の路面電車が走ったのは1895年(明治28年)2月1日。路面電車の中で最初というだけでなく、日本初の電車でもある。日本最初の鉄道は新橋-横浜間で1872年10月14日(旧暦・明治5年9月12日)正式に開業した。その後、各地で鉄道が敷設されたが、京都で電車が走るまでは、すべて蒸気機関車による運行だった。

 ちなみに日本2番目の名古屋は1898年(明治31年)。東京と大阪は1903年(明治36年)、横浜は1904年(明治37年)である。東京が最初でなかった理由は多々あるようだが、反対に京都が一番となった理由を探ってみると、当時の日本の状況が浮かび上がるようで興味深い。

路面電車が走ったのは京都駅近くの京都市下京区塩小路通東洞院と南に下った伏見区下油掛町までの約6キロ。運営したのは民間鉄道の「京都電気鉄道」。

現在、両方の起点に「電気鉄道事業発祥の地」という小さな碑が建っている。1つが1970年(昭和45年)に鉄道友の会京都支部が建てたもの。文面は「明治28年2月1日、京都電気鉄道株式会社は京都市下京区東洞院通塩小路踏切(旧東海道線)南側から伏見町油掛通まで電気鉄道を我が国において始めて開業した」という簡素なもの(写真)。場所は竹田街道と油掛通の交差点。和菓子の駿河屋本店の店舗入り口の脇にある。駿河屋を頼りに探したので見つかったが、見落としてしまいそうだ。

もう1つは、京都駅北口の北東端にある(写真)。1975年(昭和50年)建立で、建てた組織を見ると日本国有鉄道、京都市交通局、関西電力株式会社、阪急電鉄株式会社となっている。阪急が名を連ねているのが興味深いところだ。

内容は「日本最初の電気鉄道はこの地に発祥した。即ち明治28年2月1日、京都電気鉄道株式会社は東洞院通り七条下る鉄道踏切南側から伏見下油掛通りまで6キロの間に軌道を敷き電車の運転を始めた。この成功を機として我が国電気鉄道事業は漸次全国に広がり、今日の新幹線電車まで発展することになったのである。よって、その80周年にあたり先人の遺業を讃えてこの記念碑を建てる」こうした碑の文面、あるいはいくつかの書物を読んで、2月1日という日付だけが頭に残ってしまったが、本当は「仮開業」だったらしい。

 

 

京都市梅小路公園の市電ひろばで走っている市電(チンチン電車)。蓄電池とモーターが動力。
京都市梅小路公園の市電ひろばで走っている市電(チンチン電車)。蓄電池とモーターが動力。

▽京都だけの少年「告知人」

 最初の路面電車はどんなものだったのか。今でも同種の電車が愛知県犬山市の明治村で走っているし、京都駅近くの梅小路公園の「市電ひろば」では改装した電車が走っているので、最初の蒸気機関車(陸蒸気)以上に姿がなじみ深い。

 1両は20フィート(約7メートル)、乗車定員は16人(後28人)。最初のゲージ(軌間)は国鉄と同じ1.067メートル。オープンデッキ型と呼ばれる、前後の乗降場に壁や窓がない吹きさらし型。運転士はこの吹きさらしの中で運転していた。当然、後部のデッキには車掌が立った。法律により運転速度が定められ、当初は時速約13キロだった(写真は梅小路公園内を走る初期の路面電車)。オープンデッキ型は鉄道馬車の構造を引きづっていたためらしい。

 初期の電車でおもしろいのは、京都では進行を案内して回る「告知人」という少年の乗車が義務付けられていたことだ。少年たちは規定により電車の5間(約9メートル)前を走って「電車が来る」と触れ回っていたと、梅小路公園内の市電関係者は教えてくれた。当時の写真を見ると、確かに運転席の手前に少年の姿を見ることができる。ただ「告知人」の存在は鉄道会社にとっても重荷だったらしく、何度も行政に陳情して、前後に人をすくう網(救助網=ライフガード)を付けることに改修された。明治村などでみられる車両の前後に網の付いた路面電車は当時のスタイルを示している。

 京都に続いて各地で開業した路面電車では様々な企画のゲージを持った電車が登場した。京都でも市電は最初から1.435メートルの標準軌を採用した。梅小路公園内の市電ひろばには、オープンデッキ型の車両と3本のレールを見られるところがある。異なるゲージを持つ電車が走れるよう、3本のレールを敷いたことを伝えるものだ。

最初のころに路面電車が走った南禅寺近くの平安神宮に保存されている京都市電。既にオープンデッキ型の乗降口ではなくなっている。
最初のころに路面電車が走った南禅寺近くの平安神宮に保存されている京都市電。既にオープンデッキ型の乗降口ではなくなっている。

▽復興への巨大事業

 最初の路面電車の終点(あるいは起点)となった油掛町(油掛通り)とは、どんなところだろう。駿河屋本店脇に京都伏見ロータリークラブが寄贈した説明の碑によると、油掛の由来は通称「油懸地蔵」(西岸寺)からきている。江戸時代から淀川を上って宇治川に入る船が着く伏見港に近く物資集散地として、また京と大坂を行き来する旅人で賑わった街道筋らしい。第一銀行が京都市店に続いて油掛町に伏見支店を開設するなど、明治時代になっても繁栄は続いたという。

 それでも、なぜ伏見か、それも油掛町なのか判然としない。当時の関西の鉄道事情をざっと見てみると、新橋-横浜間に続いて、1874年(明治7年)には大阪-神戸間が開通。1877年(明治10年)には京都まで結ばれた。1880年(明治13年)には大津まで延伸されている。新橋から神戸まで結ばれたのは1889年(明治22年)、1895年(明治28年)にはこの路線が「東海道線」と命名された。前年始まった日清戦争が終結し「日清調和条約

」が結ばれたのも1895年だった。日本最初の電気鉄道が開通した1895年はこんな年だったのだ。

 実は京都電気鉄道の路線は、この1本だけではなかった。京都駅北側の七条停車場から木屋町を経由して南禅寺までの路線が同時に敷設され、1895年4月1日に開業した。京都駅-油掛町間の開通からわずか2ヶ月後のことが、あまり大きく扱われていない。ただ当時の新聞は2月1日を「仮開業」と記載しているようで、本来なら伏見から南禅寺まで結ばれるはずだったと思われる。しかし1本になれなかったのは「東洞院通り七条下る鉄道踏切」のためだろう。民鉄の京都電気鉄道はこの年「東海道線」と名付けられたばかりの国有鉄道の路線を越えることはできなかったのだ。

 一方、4月1日の開業日に南禅寺近くで何があったかというと、この日から南禅寺近くの岡崎公園で第4回内国勧業博覧会が始まった(7月31日まで)。内国勧業博覧会は1877年(明治10年)から5回開催されたが、京都までの3回は東京・上野だった。そして1890年(明治23年)開かれた第3回博覧会の目玉が、構内を走った電車(路面電車)だった。新橋から神戸まで開通している東海道線を利用して、東京以外で開催される最初の博覧会に来る

客には、どうしても公道を走る日本最初の電車に乗せよう。そんな京都府、京都市、市民たちの思いが「日本最初の電気鉄道」になったのではない だろうか。そして、それを実現させたのが、琵琶湖疏水と疏水を利用した「日本初の商業 用水力発電所」だった。路面電車と水力発電は、大政奉還と首都の東京移転で衰退の一途 をたどっていた京都復興の大きな柱だった。

日本最初の電気鉄道と水力発電所(2)に続く。