書評 『湯川博士、原爆投下を知っていたのですか』

副題『“最後の弟子”森一久の被爆と原子力人生』 著者:藤原章生(毎日新聞記者)

森一久という人は「原子力ムラのドン」として知られていて、私が原子力を取材し始めた当時は既に日本原子力産業会議(原産)の専務理事だったと思う。名刺を交換した記憶はあるが、話を交わした記憶はない。原産の事実上のトップというのは、まさに原子力産業界のボスであるという認識程度しかなかった。

 それが、森氏はもともと中央公論社が発行していた「自然」という雑誌の記者・編集者で、ジャーナリストからインサイダーへの道に入ったこと。それには湯川秀樹博士の意向が強く反映されていたこと、そしてなにより19458月に広島で被爆したことなどを本書で初めて知った。

 本書は森一久という、日本の原子力開発史には欠かせないが、ほとんど表舞台に出てくることのなかった人物の評伝なのだが、タイトルの「原爆投下を知っていたのですか」という投げかけは相当刺激的だ。

 著者は、森氏が原子力ムラを去った後に「湯川博士の最後の弟子」と聞いて取材を開始し、そこで森氏が70歳を過ぎて初めて「博士は広島への原爆投下を知っていた」という疑問を持ったことを知り、一緒に謎解きを進める。それが2007年。本書が発行されたのは20157月だから、かなり長い謎解きの旅ともいえる。この間、森氏自身20102月、84歳で死去している。

 湯川博士が広島への原爆投下を知っていたのではないかという疑問の根拠は、森氏と同じ広島出身で京都大学に進んだ人が、恩師の教授から「広島に新型爆弾が落とされるから、家族を疎開させた方がいい」と言われた。その席に湯川博士も同席していた、というものだ。証言をした人は間違いないと言い、森氏と著者は生き残った関係者に当たるが、謎は謎として残ったままだ。森氏自身は湯川博士から新型爆弾の話を聞いたことはなかったという。

 その中で出てきたのは、森氏が原子力の世界に進んだ理由が「(原子力の)監視者になれ」との湯川博士の助言だったという話だ。ここから本書は森氏の原子力ムラでの歴史を追う。著者によると、晩年の森氏は日本の原子力開発体制、ムラに絶望していたらしい。2004年に原産から退いたのだが、その動きは1960年代からあったようだ、と筆者は森氏が遺した書面などから類推する。

 しかし、この間、原子力の世界では破局的な事故が相次いでいる。黎明期の米国や英仏で起きた相次ぐ放射能漏れ事故。1973年の米スリーマイルアイランド原発事故、86年の旧ソ連チェルノブイリ原発事故など。日本でも動燃もんじゅのナトリウム漏れ事故やJCO臨界事故など、枚挙にいとまがない。そうした事故に森氏はどう対応したのか、あるいは対応しようとしたのか、本書ではあいまいだ。

 著者によると、森氏は晩年「動燃は関東軍になってしまったのか」「原子力界は“サタン”ばかりになってしまったのだろうか」などと記していたという。しかし、それで原子力ムラが真剣に対応したという話は出てこない。

 森氏が死去した翌年の3月、東日本大震災と東電福島第一原発爆発事故が起きた。未だに数多くの住民が避難生活を続け、遅発的な病気の恐れが消えない。それにもかかわらず、政府と大企業、原子力ムラは強引に原発再稼働を推し進めている。ドンがもっと強く警告していたら、そして事故の時まで生存していたら、東電福島原発事故への対応はどうなっていただろう。森氏らから電源車の配備を助言された東電が拒絶した話は本書にも出てくるが、原子力ムラが批判者を排除するような姿勢をとり続ける限り、絶望的にならざるを得ない。やはりサタンを生んだ責任は重い。

 

2016117日)