近代遺産 松代大本営物語

戦争という狂気がつくり出した地下壕 長野・松代大本営跡

今年11月11日、長野市松代の松代大本営跡地で追悼の集いが開かれた。このニュースを報じたTBSによると、「松代大本営朝鮮人犠牲者追悼平和祈念碑」の前に約70人が集まって追悼したという。この日は「大本営」の建設工事が始まってから、ちょうど70年にあたる。太平洋戦争末期の狂気を示す遺産なのだが、その成り立ちなどに対する国民の関心は薄い。

人びとが追悼した祈念碑は一連の「大本営」のうち「象山地下壕」と呼ばれる、地下壕の一部を見学できる施設の入口にある。入り口から見ると祈念碑の反対側に「松代象山地下壕」と書かれた説明板があるのだが、その一部に紙が貼られている。紙で隠したのは朝鮮人を強制連行して労働させたという趣旨の「強制的」という言葉と思われるが、その理由を「必ずしも全員が強制連行ではないとの見解があるため」とする長野市の姿勢に対して追悼参加者は「両論併記は歴史をねじ曲げるもの」とするアピールを採択したと伝えている。

 

紙で隠した「強制的」の表現

この大本営跡を最近見に行った。確かに説明板の一部に紙が貼られ言葉が隠されていたが、かえって目立った。貼られた部分は「強制的に」という文字があったことが分かる仕組みだ。というのも、説明板の端には「この説明板の中に『延べ三百万人の住民及び朝鮮人の人びとが労働者として強制的に動員され』と記載されていましたが、『全員が強制的ではなかった』などの見解があることから、現在、説明内容について再検討しています」と隠したことが意味をなさないといわざるを得ない説明が貼ってあるのだ(同じ内容の但し書きが天皇御座所に予定されていた現・気象庁地震観測室にもある)。「在得会」などによる民族差別行動が各地で活発になり、自治体による慰霊碑の撤去などの動きが出ているが、この張り紙にはそうした動きへの抵抗ではないかと、うがった見方すらしてしまう。

 

長野市が説明板に書いた但し書きのように、必ずしも全朝鮮人が強制連行されたわけではなかったことは当たり前だろうと思う。実際に、建設は鹿島や西松などの大手が請け負っていたが、現場の組長(親方)は朝鮮人にやらせていたことが確認されており、少ないながら給料を払ったという記述もあるので「銃で脅し檻に閉じ込めて」などのイメージを思い浮かべる「強制」ではないことは確かだ。しかし、だからといって強制的に動員されたという事実が全くなかったかのようにしてしまうのは、とんでもない歴史の捏造である。

 

戦争遺産再発掘に高校生の力

松代大本営とはなんだったのか。その再発掘と保存はそもそも地元の私立長野俊英高校(旧・篠ノ井旭高校)郷土研究班の高校生の運動によるものだったことを併せ、再び日本国内がきな臭くなっている今日考えてみる必要がある。

 

記録によれば、1985年(昭和60年)6月に沖縄への修学旅行に行った高校生たちが、沖縄のガビラ壕につながる戦争の遺跡として地元の松代大本営地下壕に注目。長野市などに実地調査と保存を要請するとともに、当時の記録を調査してきたという。ちなみに今日、象山地下壕入り口で渡される見学記念パンフレットの主体は(学)篠ノ井学園長野俊英高等学校郷土研究班である。

そのパンフレットは松本大本営について次のように記載している。

「太平洋戦争末期、本土決戦を叫ぶ旧軍部が長野県長野市松代に地下壕を構築し、大本営、仮皇居、政府機関などを移す計画を立てた。工事は飯場などの準備をした後、1944年11月11日(午前11時)に最初のハッパを合図に開始され、イ地区(象山)、ロ地区(舞鶴山)、ハ地区(皆神山)の3地区の地下壕で総延長11キロを掘り抜いた。全体で7割方完成していたといわれるが、ポツダム宣言受諾を知った朝鮮人により8月13日から工事は進まなくなり、終戦を迎えた」。

現在、公開されているのは主に政府機関と日本放送協会などが置かれる予定だったというイの象山地区。なおかつ、1985年の調査で分かった地下壕のうちの一部に過ぎない。この史跡に向かう道には「大本営」などという言葉が書かれた標識はない。入口に入る四つ角に「象山地下壕」と小さく書かれた案内があるだけだ。拍子抜けするようだが、血と涙の結晶ともいえる戦争遺産は物見遊山で出かけるところではないので、観光地のように扱うこと自体不謹慎に違いない。これで十分か。

 

7割方完成していたというように、戦争中は完成した地下壕に部屋が作られていたというが、戦後間もなく地元の人たちが材木や建築資材などを持ち出したのか、再発掘時点では何も残っていなかったという。さらに、85年に保存が決まってから、部分公開される90年までの間に「朝鮮人の『手』によるダイナマイトの発破跡やなまなましい工事の傷跡が壕の崩壊防止工事によってきれいに削り取られていた」(地元、信濃毎日新聞への投書)と指摘されたような「保存」作業で、たぶん当初とはかなり異なった姿になっているが、それでも中に入ると異様な気分になる。

 

地下壕は東西方向に20本の縦坑があり、10本の横坑が縦坑を串刺しのように貫いている。総延長は5,854メートルという。入口でヘルメットを借り、しばらく歩くと前方に光が見える。途中で鉄柵に遮られて進めないが、別の出入口から差し込む光で、その外には地下壕建設中、朝鮮人労働者の「飯場」がおかれていたという。

現在、中を見ることができるのはL字型になった縦坑と横坑の一部。朝鮮人労働者が岩に書いたという文字も直接見ることができず、写真だけ。鉄柵の一つにはなぜか千羽鶴が吊られてあった。

一方、天皇御座所や大本営が予定されていた「ロ地区」は象山から数キロ奥に入った舞鶴山麓の旧西条村にある。ここに住んでいた130戸の住民に立ち退き命令が下ったのは象山工事が始まった翌年の45年4月6日だったという。約5カ月遅れて工事が始まったことになる。

天皇御座所自体は地上にある。薄茶色の1階建ての建物が3棟あり、Ⅰ号舎(天皇居住用)、Ⅱ号舎(皇后用)、Ⅴ号舎(宮内庁用)とされていた。現在、天皇居住予定家屋は一部を外から見ることができる。70年以上経った部屋だが、造作はしっかりしており、当初は15畳の一間だったが、戦後気象庁職員の待機所として使われた時期があり、二間になっているという。材質は檜、秋田杉などの高級材質を使用。天井は秋田杉を使った竿縁天井とのこと。また建物の上と裏はコンクリートの厚さが80~90センチあり、当初は半地下壕建築だったという。

大本営地下壕(号舎)は総延長2600メートル。敗戦までに計画の90%の掘削が終了していたといわれる。地下壕は戦後、気象庁の地震観測室に利用され、一般人が立ち入ることはなかなかできないが、壕内には「敗戦により解放された朝鮮人労働者が、その喜びを書き付けたハングル文字が岩壁に残されている」(「僕らの街にも戦争があった」66ページ)という。立ち退き命令から4ヶ月半で、ここまで掘削が進んだということは、逆に言えば従事していた労働者の環境がいかに厳しかったかを示しているといえる。

同書は「暗く苛酷な地底での労働に対し、天皇『御座所』の、この豪華さはどうであろう」(68ページ)と嘆いているが、昭和天皇はこの御座所に「疎開」することはなく、戦後になって何度か「無駄な穴」と言ったという記述すらある。

 

イ地区、ロ地区に続いてハ地区(皆神山)も工事が進められていた。当初は軍司令部用に企画されたが、落盤や湧水で用途を変更し、食糧貯蔵庫として使うことになり、敗戦時にはほとんど完成していたとされる。現在は壕内が崩壊して中を見ることはできないそうだ。

 

▼「徴用」も「強制連行」も権力の強行

長野私立図書館で調べたところ、松代と同じように東京から疎開させようとした施設がいくつもあることがわかった。戦争中作られた地下軍事施設は半地下方式も含めて538カ所という。特に長野市周辺にはいくつもの軍事施設が大急ぎで建造された。大本営や象山地下壕を掘ったのは陸軍だったが、海軍は同じ長野市安茂里に海軍小市地下壕を掘っていた。掘り始めたのは陸軍より遅く45年6月。100メートルほど掘ったところで敗戦となった。

 

これらの建設現場のいずれでも朝鮮人が現場で働かされていた。数千人とされる朝鮮人のほとんどは、好き好んで雪深い長野の地に来たわけではない。戦前、日本は朝鮮を併合し、そこに住む人を連行して働かせることを徴用と言っていた。確かに徴用されたのは朝鮮人だけではなかった。

しかし徴用と強制連行には極端な差がある。祈念碑建設に携わっている「松代大本営追悼碑を守る会」事務局長の原山茂夫さんが著した小冊子「松代大本営工事労働・その全貌と本質を共に極めるために」(2006年8月刊)は、連行の実態に迫った貴重な資料だろう。

原山茂夫さんはその中で次のように書いている。「『徴用』は『徴用する』という官側の用語であるのに対し、『強制連行』は『連行される』被徴用者の民側の立場に立った用語である」(P2)。官側はなおかつ「徴用」ではなく「被斡旋」という言葉にすり替えているという。当時の官側の用語に沿って、「(被徴用なのだから)強制連行はなかった」とするのは、ごまかしに違いない。

 

▼理由分からぬ地震多発地帯への「逃避」

ところで、敗北濃厚となった段階で日本軍はなぜ長野に「逃げ道」を求めたのだろう。既に太平洋の防空圏を失い、本土への空襲も差し迫っていた。国民には「多大な戦果」を報じながら、戦況におののいていた様子が分かる。それでいて、極わずかの兵力で連合軍を向かい撃つと意気込んだところで、戦闘は一瞬にして終わってしまったに違いない。

松代と聞くと、かなりの人は「松代群発地震」を思い出すのではないか。1965年8月3日から実に5年半も続いた、世界的にも例を見ない長期間にわたった群発地震である。震源地は皆神山付近。あの「ハ地区」が掘られたところである。

つい最近も長野県北部で震度6弱の大きな地震があったが、この周辺は昔から地震が頻発している。長野市では江戸時代の1847年5月8日(弘化4年3月24日)、善光寺平を震源域とする直下型地震が発生。折から善光寺薬師如来の開帳時期と重なり、多くの参拝客が被災。死者は約2500人(市中のみ)に達する大災害となった。今日の研究では、この一帯はフォッサマグナ(中央地溝帯)の中央部にあり、糸魚川静岡構造線に近いことが分かっている。

松代に天皇御座所や大本営を設営しようとした軍部は、善光寺地震の事実を知らなかったわけではあるまい。この中央地溝帯をフォッサマグナと命名したのはナウマン象で有名なドイツ人地質学者、ハインリッヒ・エドムント・ナウマン。日本の東西で地質構造が異なることを1885年に論文を発表し、翌86年にフォッサマグナと名付けていた。大本営の地下壕掘りが始まる60年も前のことだ。

善光寺地震のような大地震の恐れがあると頭をよぎらなかったのだろうか。それとも、自分たちが生きている間は大丈夫と高をくくったのだったか。「冷静さを欠いていた」と批判するのは簡単だが、今でも似たような高をくくった考え方が横行しているのではないか。松代大本営跡を見て、そう感じた。

(了)