旅日記 大船渡津波伝承館を訪れて

斎藤賢治館長
斎藤賢治館長

 東北の被災地を巡る旅で、大船渡津波伝承館(齊藤賢治館長)を訪れた。伝承館は「かもめのたまご」で有名なさいとう製菓の本社ビル内にある。これまで齊藤館長と私たちの都合が合わず、訪問できていなかった。

 伝承館は齊藤館長自ら語り部となって震災の経験と教訓を被災地以外の人たちや後生に伝えるのが目的。まず2011311日の東日本大震災地震・津波襲来時のビデオを鑑賞。ビデオは地震で大船渡港近くにあった旧本社の建物が揺れているさなか、齊藤さんが「津波が来る。早く逃げろ」と従業員に叫んでいるシーンから始まる。近くの高台に逃げた後、撮影した映像ではあっという間に津波が港や市街地に襲いかかってくるシーン。よく見ると、海の方向に向かって進む車や人。津波が見えていなかったのか、慌てている様子もない。続いて津波にのまれる家屋、やがて廃墟になった街。

 地震で大揺れになっていた時に、津波を同時に想定して避難を呼びかけているシーンを観たのは初めてだった。齊藤さんによると、これは父母の教えという。大船渡だけでなく東北の三陸一帯は、明治の三陸地震津波や昭和35年のチリ地震津波など大きな津波に襲われ、多数の被害者が出ている。父君は最初に津波に襲われた時に知識がなく、かろうじて助かったといい、その時の経験を子供の頃の齊藤さんに何度も話していたという。母君も、寝る時には枕元に必ず衣服を置いておけと教えていたとのこと。

 北海道・奥尻島の地震(1993712日)では、津波は地震発生から35分で到達していたことも知識として持っており、地震発生時から津波に備えた避難行動を考えていたそうで、さいとう製菓では地震当時働いていた従業員は全員無事だった。「やはり普段からの心構えが大事」と齊藤さんは言う。

 その反対例が、裁判になっている宮城県女川の七十七銀行女川支店で行員が支店内にとどまり犠牲となったケース。齊藤さんによると、この他にも、ある会社で大津波警報が出て、市内で避難の呼び掛けが続いていたにもかかわらず、社長が「逃げたらクビだ」と命令。1人だけが社長の命令を無視して逃げ、助かった例があったという。「従業員を安全なところに逃がすのが経営者、上司の義務であり、想定外という言い訳はとんでもない」と齊藤さん。

 

 このように震災後のアンケート調査などでは、犠牲者の70パーセントは避難行動を取っていれば助かったとのデータが出ているという。さらに、いったん避難したのに「自宅などに戻った(ため犠牲に)」という人がかなりいた。戻った理由として年配者は位牌や写真を取りに、中年は通帳や印鑑などが多く、311日は寒かったので上着や毛布などを取りに行って津波の犠牲となったケースもあったという。

 こういう軽い気持ちで家に戻った人が多く、専門家は平常性バイアスといって「自分はひどい目に遭わない」と勝手に思い込む心理が避難者に働いたと分析しているらしい。

 「自分は大丈夫」と思い込んでいた一つの根拠が防潮堤だった、と齊藤さんは説明する。大船渡や陸前高田の防潮堤は昭和35年のチリ地震津波後に造られた。大船渡湾には湾内に海面から4メートルの堤高の防波堤が造られ、さらに陸域には堤高1.8メートルの防潮堤が建造された。湾央から外海に向かったところにある門の浜地区では幅3メートル、高さ5メートルの防潮堤が造られた。しかし、いずれも津波で大地がえぐられ、コンクリートの堤は壊れてしまった。陸前高田も7万本あった松林は防潮堤の両側に植えられ、松林の中に「防潮堤散歩道」があったが、津波で全く影も形もなくなった。

 「自然相手に人工物はもろいのに、防潮堤があるというだけで、人々は安全や財産が守られると信じていた。大きな間違いだった」というのが齊藤さんの教訓だ。伝承館のビデオの最後は「地震が来たら、すぐ高台に避難、決して戻るな」という言葉を伝えて終わる。

 東日本大震災から3年以上たち、被災地以外では震災を忘れかけているのではないかという懸念が強まっている。人々の記憶が薄れかけそうな今日、より多くの人が齊藤さんらの声に耳を傾けて欲しいと思う。                

 

2014626日)