「埋もれた歴史遺産を訪ねて」

西伊豆の漁村は日本の洋式船発祥の地だった         安政東海地震の津波がもたらした造船技術

西伊豆の漁村は日本の洋式船発祥の地だった安政東海地震の津波がもたらした造船技術伊豆半島の西岸に位置する沼津市戸田地区は、タカアシガニなどの深海海産物で有名な漁業と観光の町だが、日本の洋式船発祥の地でもある。ただ戸田湾の外側にある御浜(みはま)岬先端の沼津市戸田造船郷土資料博物館と昨年できた道の駅「くるら戸田」に模型や関係資料が展示されている程度で、資料もほとんど出回っていない。博物館のすぐ脇の砂浜は夏になって海水浴客で賑わっているが、博物館を訪れる人は余りおらず、従って知る人も少ない。

 しかし最初の洋式船誕生には、約150年周期で発生するとされる東海地震、世界文化遺産の韮山反射炉で有名になった江川太郎左衛門、日本が米国やロシアなどと結んだ不平等条約など、江戸時代末の大きな歴史のうねりが重なっていた。幕府の力でできた洋式船は、明治以降の日本の造船業隆盛につながっている。

 

▽安政東海地震でロシア軍艦が損傷

 最初の洋式船の名は「ヘダ号」という。全長24メートル、幅7メートル、排水量100トンの木造帆船だ。和船が1本マストであるのに対し2本マスト。現在のほとんどの船舶のように、竜骨で船の枠を作ったのが特徴だ。三角帆を張った2本マストと相まってかなり風上にも船を進められる上、平らな船底の和船に比べて容易に外洋航海が出来る。誕生のきっかけは1854114日発生した安政東海地震の大津波。日露和親条約締結を求めて幕府と交渉するため来日した、ロシア国王特使プチャーチン提督を乗せて伊豆半島の先端部下田湾沖にロシアの軍艦ディアナ号が停泊していた。津波に見舞われたディアナ号は竜骨の一部がもぎ取られたうえ舵も失い、沈没は免れたが大規模修理が必要となった。

提督は日本での修理を幕府に求めたが、遠浅の砂浜に船を横倒しにして修理しなければならず、最適な修理場所として選ばれたのが当時の戸田村だった。

ディアナ号は1126日に下田を出港し戸田に向かっていたが、強風にあおられ現在の富士市沖で座礁。近隣漁師らが百数十隻の伝馬船を仕立てて曳航したが、122日途中で沈没した。約500人の乗組員は全員伝馬船に乗り移って助かったが、ロシア人乗組員は帰国の手段を失った。ディアナ号は1853年に進水したばかりの最新鋭艦で、全長52メートル、排水量2千トン、3本マストのフリゲート型帆船で大砲は52門搭載。船首にはロマノフ王朝を象徴する双頭の紋章が金色に輝いていたという。

 

▽技術獲得図った江川太郎左衛門

 ディアナ号沈没により提督は幕府に代船建造を願い出たが、ここで登場したのが韮山代官の江川太郎左衛門英龍だ。英龍は1853年の米ペリー提督来航後、勘定吟味役格に任ぜられ江戸湾での台場建設や反射炉建造などを矢継ぎ早に進めてきた。プチャーチン提督がディアナ号修理を要望した段階から、軍艦製造技術習得に役立つとみて積極的に船大工や鍛冶屋などを戸田の地に呼び集めた。新船建造が決まると「造船取締役」に就任。設計や建造の指導はロシア人将校だったが、実際の建造は舟大工や鍛冶屋にさせ技術の習得に努めた。残念ながら英龍は、53年から55年までの激務がたたり、55116日戸田号の完成を見ずに死去した。

 戸田号はどんな船だったのか。戸田博物館によると、基になったのはディアナ号から持ち出されたロシア海軍省機関誌「モルスコイ・スボルニク」に掲載されていた80トン級の大型ヨット「スクーナー・オーブトイ」の設計図。ディアナ号に乗り組んでいたモジャイスキー大尉らが指導して541224日建造を開始。言葉の問題や度量衡制度の違いなどあり意思疎通が大変だったようだが、ロシア側は紙で原寸大の図面を作り、それを日本の船大工たちがきちんと写し取って建造した。博物館には当時の図面が一部展示されている。これを見ると日本側は尺貫法で寸法を合わしており、寸の下の分、厘まで測っていたことが分かる。

そうして100日というロシアと幕府が約束した期間内の310日進水。プチャーチン提督ら47人(48人との説も)は同月22日に戸田を出航し、箱館(今の函館)を経由して日本海の荒波を乗り越えロシアへ戻った。ヘダ号は57日、サハリン北部に面したシベリア・アムール川沿いに出来たばかりのニコライエフスク港に到着。翌56年、ロシアの軍艦オリヴィッツ号に曳航されて下田に帰還した。ヘダ号に乗船できなかったロシア人乗組員はその後アメリカの商船カロライン・フート号とドイツの商船グレタ号に分乗して帰国した。

 

▽江戸城の石垣積み出しで賑わう

ヘダ号建造当時、人口3000人の戸田村には500人のロシア人、彼らを見張る幕府の役人、戸田村以外から集められた職人らで溢れかえっていた。安政東海地震で被害が出た直後のことである。それでも幕府の命によりプチャーチン提督ら幹部は村の中心にある宝泉寺と本禅寺に宿舎があてがわれ、水兵や乗組員向けには本禅寺の脇に長屋を4棟建設して収容した。

今でこそ漁業と観光中心の小さな漁村だが、博物館によると江戸時代は「廃れた寒村ではなく、廻船業で賑わう湊町だった」という。昨年4月オープンしたばかりの道の駅「くるら戸田」の展示室を見ると、その理由が分かる。江戸城築城の際の石垣に戸田で切り出した石が使われた。その後も諸藩が戸田に石切場(石丁場)を所有していたとの記録がある。近代に入っても、戸田の石は関東大震災の復興に使われたという。当然、石を切る技術だけでなく、石を運ぶ廻船も盛んになり、その流れが戸田に廻船業の隆盛をもたらした。廻船業者は造船の基礎知識を持っていたうえ、人を受け入れるキャパシティがあったということに違いない。

 一方で戸田は三方を険しい山で囲まれ、抜けるのは狭い道だけ。戸田湾の先には小さな半島のように突き出た御浜岬があり、内側は波が静かなだけでなく、外洋を通る船からは湾内で何をやっているのか分からない。ディアナ号が遭難した当時、ロシアは英仏とクリミア戦争の最中だった。ディアナ号の修理にせよ、新船建造にせよ、下田を行き来する英仏の船舶の目につかないようにするにはうってつけだった。当時の下田日記には「戸田ならば、二十町より外に出ることならぬ要害の地故よろし」との記載があるとのこと。

▽明治以降の軍艦・造船の基に戸田では幕府の命で「君沢型」と名付けられた同型の船が、ロシア人の指導で6隻建造さ

れた。その後、江戸の石川島にあった水戸藩の造船所でも、戸田の船大工の手で4隻の同型船が建造された。今の石川島播磨重工業につながる技術だ。戸田の船大工の一人、上田寅吉はその後、長崎伝習所に学び、オランダに留学。幕府が購入した咸臨丸に乗艦。新政府では横須賀造船所の初代職長になった。他の船大工たちも、それぞれ洋式船建造技術を買われて、軍艦などの建造の道に進んだ。一方のヘダ号。1869年の戊辰戦争・箱館戦争で旧幕府軍の輸送船に使われたとの記録があるらしいが、その後の消息は分かっていない。

 20168日)