啄木鳥 no.14                                                   対話の中から、行く末を思う いわき市の「未来会議」

福島県いわき市に「未来会議」というものがある。NPOなどの法人ではなく、行政機関がつくった委員会のようなものではない。集まった人々が特定の目的を持って行動しようという団体でもない。しかし2013年1月に立ち上がって以来、丸2年活動している。今年も3月7日、いわき市で「あれから4年~いま、大切にしておきたいこと」と題したゲストトークと対話の催しがあり、老若男女80人あまりが集まって「対話」した。参加したのはいわき市民だけではない。東電福島第一原発事故でいわき市に避難している住民、避難生活はしていないが被災している住民。それに沖縄や神戸など県外から参加した人たち。皆それぞれの4年前、2011年3月11日とそれからの日々を振り返った。

 

 私が未来会議を知ったのは、2013年9月末。福島市で開催された「ふくしま会議」がエクスカーションとして「旧警戒区域行ってみっぺツアー」を開催、防護服を着て旧警戒区域の富岡町を巡るツアーに参加した時。このツアーを企画実施したのが、いわき市にある「いわき未来会議」と教えられた。

 以来、都合がつく度に参加。今回は3回目になる。この間「いわき未来会議」「未来会議inいわき」と名称が変わり、今回からはついに「未来会議」と地名がなくなった。震災から4年目の未来会議。ゲストスピーカーは作家の柳美里さん、全町避難が続いている大熊町の武内敏英教育長、いわき市元副市長の鈴木英司さんの3人。4年前と「あれからの4年」を語った。

 

 未来会議が軌道に乗っているのはワールド・カフェという対話形式をとったことだろう。ワールド・カフェは4人ぐらいで一つのテーブルを囲み、それぞれが思いを語る。テーブルの上には模造紙が敷かれ、各自思い思いの単語やフレーズ、イラストなどを話の合間に書いていく。といって、それをまとめるわけではない。適当な時間になると、ファシリテーターが席替えを促し、また新しい人と会話(どちらかというと茶話会の「おしゃべり」)をする。3人のゲストスピーチに続いて、各テーブルでは4年間の思いを淡々と語る「対話」が始まった。

 

 このワールド・カフェは今に始まったものではなく、1995年に米国のアニータ・ブラウンとデビッド・アイザックスによって提唱されたものだという。しかし、これまであまり人口に膾炙してこなかったような気がするし、採用した市民団体でもうまく機能しているかどうか分からない。それが、ここで根付いたのは、いわき市という特殊な環境にあるのではないか。

 いわき市は合併を繰り返し、最近まで東北では仙台市に次ぐ人口だった(震災後、同じ福島県の郡山市に抜かれた)。漁業と共に工業が盛んで、常磐炭鉱の閉鎖で一時人口は減ったが常磐ハワイアンセンター(現ハワイアンリゾート)で観光客も増えた。そんな中の震災と原発事故。津波による死者・行方不明者が発生し、護岸破壊による漁業被害も。それら東北全般に共通する被災に加え、原発事故による放射能問題がのしかかった。漁業は操業停止し、自主避難者も出た。その一方、原発周辺自治体から避難してきた多くの住民を受け入れている。

 市の最新の統計によると人口は37万5700人余だが、元副市長の鈴木氏はいわき市に避難して住民票を移さずに住んでいる住民は約2万4000人、原発や除染の作業員が数千人。反対に、市外に避難している人は1500人ぐらいという。実際は40万人以上が生活していることになる。市内にはいくつもの仮設住宅が建っており、さらに公営復興住宅の建設が進む。原発の電気で謳歌してきた関東の住民からは、放射能に汚染された都市であるかのような差別を受けるが東電から賠償を受けているわけではない(実際に手持ちの線量計で測っても、ほとんど0.2マイクロシーベルト以下、南側の北茨城市や日立市と変わらない)。避難して賠償を受けている避難者との「あつれき」は表だって聞こえてこないが、実際は様々起きている。

 だからこそ「対話の場」が求められたのだろう。未来会議事務局は「くつろぎながら誰でも参加できるワークショップ形式の対話の場」と位置づけている。3月7日の未来会議は、事前に新聞などで報じられたこともあって、初めて参加するというお年寄りや主婦の姿が目についた。中学生や高校生の積極的な参加も目立つ。

 

 事務局によると、未来会議は2012年6月に原発事故子ども・被災者支援法が国会で可決されたのがきっかけだ。同法の基本方針策定のための住民意向調査として、福島県内8カ所、県外避難先5カ所で東日本大震災復興支援財団が「芋煮会」と称したワークショップを開いた。その一つ、2012年10月16日にいわき市で開催された「芋煮会」には約40人が集まったという。その40人が中心になって、翌2013年1月26日、第1回をキックオフした。

 同年9月にはワークショップの模様や参加者へのインタビューなどを筑波大学の学生たちが撮影。2014年2月ドキュメンタリー映画「いわきノート」として完成し、いわき市や東京都内で公開された。今年1月30日、2月1日には「未来会議神戸へ」として、神戸市でワークショップと長田区を中心とした被災地スタディーツアーも開催し、交流を広げている。

 事務局は、未来会議が大切にしている点として、次の7つをあげている。

①県内外・地域も出身も関係なく、子どもから大人まで誰でも参加②どんな立場の方も安心して参加できる場つくり③様々な課題や現状を共有・可視化し、「対話」を通じて向き合い、学び合う④人と人が顔を合わせることから始まる⑤参加者一人ひとりが描く真っ白なキャンパス⑥それぞれが持つ可能性の種を育て、緩やかなネットワークをつくる⑦浮かび上がるものをアーカイブし、検証や情報共有に繋げる-の7点。

 また今回のようにゲストによるスピーチも毎回行われ、内容も多彩だ。原発で作業していた会社の社長、地元の漁師、被災者のケアに努める医師など。ゲストスピーチで、いわき市に中学生による「生徒会サミット」というものがあることを初めて知った。高校生にはOECD東北スクールという組織があって活動しているという。今回は海外に短期留学した高校生や、これから留学する予定の高校生が発表した。ゲストスピーチを行った柳美里さんも2012年3月16日から南相馬市の臨時災害放送局「南相馬ひばりエフエム」で「柳美里のふたりとひとり」というトーク番組のパーソナリティを務めているという。今日まで144回を数えたとのこと。

 

 参加者が思い思いに4年間を振り返った中で、共通していたのは「風化」の怖さ。記録しなければ記憶から消えてしまう、と勤めていた地元の新聞社を辞め町役場の文化財担当に再就職した人もいた。ワールド・カフェの「対話」は誰かに向かって発表するわけではない。お菓子を食べ、お茶を飲みながら、隣り合った初対面の人に語りかけ、相手の話を聞いて相槌を打つ。自分の思いを賢明に訴える人や、ボソボソと語る人など様々だ。そんな数時間を過ごした初参加者の中には「この4年間、人に経験を話したことはなかった」と感想を漏らす人もいた。

 この未来会議は、開いたからといって何らかの方針を決めるという種類のものではない。しかし対話し続けることで、何かが生まれてくる苗床になるのではないかと主催者は期待している。

 ゲストで後援した柳美里さんは、トーク番組であった住民の思いをこう語った。「住民はマスコミに怒りを持っている。腹を立てている。一過性、自分たちに都合のいいところだけ切り取って記事にしている、と話す。マスコミに傷ついている人がたくさんいる」と。その上で「関わり続け、話を伝えていく」と結んだ。

 未来会議には夜の部がある。普通なら交流会と呼ぶところを「夜の未来会議」と称しているのだ。今回は40人が参加した。酒を飲みながら一緒に対話していると、こうした会議があちこちで継続し、中学生や高校生に渡していくことが未来につながるという期待が膨らんできた。

2015310日)