「啄木鳥」日本頭越しの米朝首脳会談進展

思い出される対中正常化時のニクソンショック

対中国では首相を替えて日本も成功したが

 

 北朝鮮を訪問した韓国の文在寅(ムン・ジェイン)大統領特使と会談した金正恩(キム・ジョンウン)労働党委員長が4月末までの南北首脳会談に応ずる考えを表明したのを受けて、訪朝内容を説明に訪米した韓国特使と面会したトランプ大統領が、留保付きながら5月までの米朝首脳会談に踏み込んだ考えを示した。

 このニュースは朝日新聞が3月2日の紙面で得だねとして報じた前代未聞の森友文書改ざんニュースと重なってしまったため、その後は海外ニュースの中の扱いになってしまっている。ティラーソン米国務長官ら政権幹部を次々と排除するトランプ大統領の姿勢と相まって、どう判断していいのか戸惑う点も多くあるためとみられる。日本のテレビ各社や保守的な論壇は「米朝首脳会談をしても、どうせうまくいかないだろう(むしろ、うまくいって欲しくない?)という論調が大半だが、20日からは北欧で米韓朝の実務者会議も始まった。

 ここでも「国際政治から取り残される日本」の姿が浮き彫りになっているが、冷静に見てみれば、東アジア全般の安全保障と秩序に関わる問題であり、日本にとっても極めて重要だ。一部には1971年のニクソン・ショックになぞらえる向きもあり、ともに日本の頭ごなしに決められたことなど、共通点が多い。歴史は繰り返すのだろうか。ちなみに当時の日本の首相は、安倍晋三首相の大叔父、故佐藤栄作氏だった。

 

▽3分前の「事前通告」

 ニクソン・ショックと後世呼ばれることになったニクソン米大統領によるサプライズ発表は1971年7月と8月、ちょうど1カ月をおいて2度起きた。

 一つは7月15日(日本時間16日朝)。ニクソン大統領は全米のテレビ・ラジオを通じて「周恩来中華人民共和国首相からの訪中要望を受け入れる」と発表した。この時の朝日新聞の見出しは日本側のショックを伝えている。1面をほとんどぶち抜きで報じ『米大統領、訪中を受諾』『ワシントン・北京で同時発表』『来年5月までに実現』。日本関係では『日本政府を頭越し』『困惑深刻、自信失う』との記事。2面でも『政策転換迫られる政府』『野党、厳しく追及へ』『佐藤退陣、一層促進か』などの記事が並ぶ。社会面には『3分前の事前通告』とも。日本政府にとって、いかに「寝耳に水」だったことがよく分かる。各紙同じような見出しの記事が林立したが、読売新聞は同日夕刊の記事の中で「予想外だ」とする木村外相臨時代理(当時)の談話を掲載している。

 当時の日本政界は参議院選挙が終わったばかりで、何人もの「タレント議員」が誕生する一方で、長らく参議院を支配してきた重宗雄三議長の4選を「了」とずるか否かで揉めていた。4選に意欲を示す重宗氏に対して、参議院の民主化と改革を訴える河野健三氏が出馬を表明。14日になって重宗氏は辞退したが、単独支配を目論む佐藤栄作政権に対して河野氏はあくまでも立候補を辞退せず、17日未明の参議院議員による投票で自民党の一部と野党に推された河野氏が当選し、参議院の大改革が始まった。

 ニクソン・ショックはこうした状態の中で伝えられた。17日付けの各紙朝刊は従って、参議院議長選挙の結果と解説、ニクソン・ショックの続報と解説が大きな見出しで並ぶことになった。ニクソンショックについてみると、17日付け朝日新聞朝刊の総合面には次のような見出しの記事が踊る。『ゆらぐ日本外交』『米中巨頭会談の実現』『追随姿勢が危機を招く』『米、冷然と政策を変更』。

 

▽入念だった米国の政策転換

 ショックの第2波は、ちょうど1カ月後の8月15日。ニクソン大統領はドル防衛策を発表した。翌16日の朝日新聞夕刊は1面をほぼ第2のニクソンショックで埋め尽くした。見出しを見ると『米、ドル防衛に非常措置』『ニクソン大統領、衝撃の発表』『10%の輸入課徴金』『金交換を一時停止』『国際通貨改革を求む』。当然ながら株価は大暴落した。

 その後「ドル・ショック」とも呼ばれることになった、この電撃的な発表は先の見出しにあるように、米ドル紙幣と金の兌換を停止するもので、第二次大戦後の通貨の仕組みとなっていた、ドルを基軸通貨としてIMF(国際通貨基金)を支えてきたブレトン・ウッズ体制の終結を宣言するものだった。ニクソン声明の背景には、米国の貿易収支がこの年初めて赤字となる一方で、国際競争力が低下していたことが挙げられている。日本など各国もその後、変動相場制に移行せざるを得なくなったが、2つのショックは第二次世界大戦後の米国を中心とした西側世界の転換を示すものとなった。

 

 2つのニクソンショックは日本に大きな衝撃を与えたが、ともに前兆がなかったわけではない。中国は1960年代半ばからの「文化大革命」とその後の混乱で国力が衰える状況の中で隣国ソ連との緊張が高まり、60年代末には中ソ戦争の危険性が高まっていた。一方、米国はベトナム戦争が泥沼化。ニクソン氏が大統領に就任した1968年には「名誉ある撤退」すら不可能な状態になっていた。

 米中両国はこうした情勢の下、密かに接触を強めており、1971年3月に名古屋で開かれた世界卓球選手権大会に文革後始めて中国選手団が参加。選手権後、米国の選手団の訪中を中国側が受け入れるという有名な「ピンポン外交」が展開された。これが契機となってキッシンジャー大統領補佐官が7月9日、密かに北京を訪問。周恩来首相と会談して、ニクソン大統領訪中の土台を作った。

 こうして入念に練られたニクソン訪中の電撃発表。日本政府に伝えられたのは、大統領がテレビ・ラジオで自ら発表する3分前。しかも米国務次官から駐米大使への電話連絡だったという。

 8月16日付の新聞を見ると、ドル・ショックで右往左往する様子がよく分かる一連の記事の脇に、南北朝鮮が朝鮮戦争(1950〜1953)以来、26年ぶり板門店で赤十字会談を行うことが決まったとの記事も(行われたのは8月20日)。ニクソン訪中、ブレトン・ウッズ体制の終結という第2次大戦後の世界の転換期であったことは間違いない。

 

▽薩長系から「賊軍」系へ

 ニクソン大統領は翌72年2月21日、北京を訪問。中国の毛沢東主席や周恩来首相と会談して、米中共同声明に調印。両国の関係は対立から和解に移り、事実上正常化した。

 一方、自民党の中にも親中派議員を多く抱えながら、親蒋介石を旨とする佐藤栄作政権は相次ぐ求心力を失い、1972年7月6日退陣した。退陣前の6月17日に行った記者団を排除して(「出でいってください」「出て行こう」の応酬は是非を巡っても話題になった)テレビカメラだけの前で行った退陣演説は有名だ。

 佐藤首相の後継は自民党議員の熾烈な選挙で選ばれた田中角栄氏。7月7日に第一次田中内閣が発足し、首相談話の中で「日中国交正常化を急ぐ」と表明。その言葉通り、9月25日、現職の総理大臣として初めて中国を訪問。9月29日に日中共同声明に調印して、国交を回復した。

 佐藤栄作氏は言わずと知れた薩長派閥の山口県出身。生家は造り酒屋で、吉田茂とは遠縁。兄は岸信介。「核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず」のいわゆる非核三原則を提唱したことなどが評価されて、1974年ノーベル平和賞を受賞したが、死後核持ち込みの密約が発覚して議論になった。一方の田中角栄氏は戊辰戦争で「賊軍」となった長岡藩の領地出身。

 

 作家の半藤一利さんは今年2月23日付けの東京新聞掲載の保阪正康さんとの対談で、「太平洋戦争は官軍が始めて賊軍が止めた。これは明治150年の裏側にある一つの真実」と語っている。満州事変から太平洋戦争終結までの「15年戦争」の戦争処理にあたる日中国交回復は薩長の流れをくむ佐藤栄作内閣ではまとまらず、賊軍系の田中角栄氏が行ったという史実は面白い。その流れからいうと、薩長・安倍晋三首相では日朝国交回復はまとまらないということになるが。