「成功体験」とハード依存がもたらす次の被災

助かったはずの命を検証せず、防潮堤一本槍に

 私たちは深刻な状況に陥った時、しばしば昔の「成功体験」や「うまくいった話」にすがろうとする。しかし成功体験だけにすがると、えてして失敗する。一代で成功した「親父」が全権を振るう中小企業に起こることではない。大企業であるシャープも液晶という「成功体験」に頼り、破綻した。

 

 自然災害から学んで、より安全な社会をつくろうという時も同じではないか。村井嘉浩宮城県知事は「なぜ巨大防潮堤を建設するか」と問われると、必ず岩手県普代村の「成功体験」を引用し、「宮城県の防潮堤は岩手県より低かった」と述懐する(例えば月刊Wedge20154月号)。しかし同じ岩手県にあって「万里の長城」ともいわれた巨大防潮堤を有していた宮古市田老地区の被害状況について言及したのを聞いたことがない。

 かなりの教育現場では「釜石の奇跡」(今は「釜石の出来事」というらしい)を取り入れようとしているが、石巻市立大川小学校で児童・教職員計78人がなぜ犠牲となったかを学ぼうとする声はほとんど聞こえてこない。

 

▽現場に学ばず結論ありき

 出来ることなら忘れ去りたいと思っている、国内では最悪となった学校災害の「失敗の本質」を学ぼうとしない姿勢が、巨大地震・津波に対して「防潮堤で命を守る」という短絡思考になり、多層・多重防護と避難意識の欠落につながってしまう恐れがある。

 

 その典型的な例が内閣府の「広報ぼうさい」に表れている。内閣府は東日本大震災の翌年「平成24年度広報ぼうさい」「過去の災害に学ぶ 特別編」として都司嘉宣・元東大地震研究所准教授のコラムを掲載した。都司元准教授は東日本大震災後、NHKTBSなどの番組によく出演していたので、名前を覚えている人も少なくないと思う。

 

 コラムで都司元准教授は「千年地震の津波対策」として、大川小学校の「被災」を取り上げ、大川小学校の裏山について「登るのに非常に困難な斜面である」「(教職員が)108人の児童をこの斜面を登らせるのは不可能と判断されたのは無理なかった」と結論づけている。都司元准教授がこのコラムを書いたのは2012年とみられるので、現在と認識が変わっているのかもしれないが、このコラムは依然として内閣府のホームページに残っている。修訂正した跡もない。むしろ政府や行政の中で基本認識として共有されているのではないかと思われる。

 

 このコラムのタイトルは「千年地震の津波対策」。「(千年に一度の)ミレニアム津波に対して、高い防潮堤を作って防ぐことは事実上不可能である」と述べている。つまり「数百年に一度の津波は、防潮堤で防ぐことができる」というハード志向の認識だ。

 

 問題にしなければならないのは、都司元准教授は上記の結論を現地視察して書いてはいないとみられることだ。実際に自分の目で検分したのなら、「登るのに非常に困難な斜面」とは結論づけられなかっただろう。というのも大川小学校で犠牲となった児童のうち23人の遺族が宮城県と石巻市を相手取って起こした訴訟で、昨年1113日、仙台地裁の裁判官が現地を検分した。そして市や「地震・津波ムラ」の人たちが「とても避難できない」と主張する校庭の裏山に革靴のまま登って調べた。当時の記事に、遺族らが長靴を渡そうとしたが、裁判長は「大丈夫」と断ったという話もあった。この実況見分は新聞やテレビで映像や写真付きで報じられたので、現場を知らない人たちも「何だ、革靴で登れるじゃないか」と感じたはずだ。

 

 しかし都司元准教授の結論は異なる。「では、『どうなっていればよかったのだろう?』。この斜面に、ハイキングコースのようなジグザグにゆっくりと高いところまであがれる道を造っておけば、多数の命を失うことはなかったであろう。」と、正反対の結論を示している。この結論は遺族たちの怒りを買った大川小学校事故検証委員会の結論と驚くほど似ている。検証委員会は「学校が4階建てでなかった」「山に登る道があれば…」などとして、問題点をあいまいにしてしまった。懸念されるのは、これらは行政の共通認識となって避難計画や防潮堤計画が進められている恐れがあることだ。

 

▽想定外に行動できないシステム

 石巻市では大川小学校とともに震災遺構として残すべきか解体するべきか、問題になっている小学校がもう一つある。市街地の日和山公園の麓にあった門脇小学校だ。鉄筋コンクリート3階建てだったが、海に近く1階天井付近まで浸水、津波に伴う火事で全焼した。この小学校でも大川小学校と同様、地震発生時多くの児童が残っていたが、大津波警報発令を聞いてすぐ校舎の裏にある高台に避難。学内に残っていた270人の児童は全員無事だった。同小学校で犠牲となったのは、既に下校するなどして校内にいなかった7人の児童だけだった。

 

 迅速な避難を行った門脇小学校に対して、大川小学校の教職員は地震発生から51分間も児童を校庭に待機させていた。震災当時の同校の危機管理マニュアルには津波の2次避難場所が明確ではなく、「近所の空き地、公園等」としていただけで、津波被害を想定した避難訓練も行われていなかったことが分かっている。

 

 しかし何故、門脇小学校のように行動できなかったのか。これに対して、大川小学校問題を調査している富山大学の林衛准教授は次のような見解を示している。「当然、裏山・高台移転を考えただろうが、マニュアルで具体的に決まっていない先に避難して『もしも津波が来なかったら』『トラブルがあったら』どうしようとの心配が逡巡をもたらした」。林衛准教授によると、このような逡巡は他の学校でもみられたという。

 

▽「然るべき対応」が出来ずに犠牲

 このソフトの部分に焦点を当てて考えず、「成功体験」に頼って、いたずらに防潮堤を林立させ、高さだけで「守る」という「人よりもコンクリート」という思考に偏っている限り、想定外の事態が発生した時に同じ愚を繰り返すことになるのではないか。防潮堤が津波被害を減殺する役割を果たすことを否定するのではないが、多重防護の一つでしかない。東日本大震災の全国の死者・行方不明者は18466人。うち何人が、大川小学校の児童のように、直ちに避難していれば助かったはずの命だったのか。

 

 児童の遺族が起こした国家賠償法に基づく訴訟は大詰めを迎えている。訴状は「事前に避難方法や避難場所を設定し、地震発生直後から児童の安全確保のため情報収集や避難行動などの然るべき対応を取りさえすれば、児童全員の命は救われた」と指摘した。大半の人は忘れているかもしれないが、2011311日の東日本大震災の2日前の9日、三陸沖を震源とするマグニチュード(M7.3の地震があった。この地震では宮城県の栗原市、登米市などで震度5弱を観測した。津波も大船渡で55センチあった。11日の地震の揺れは、この三陸沖地震をはるかに上回るものだったのだから、揺れが収まったら直ちに避難することは、想定外でも何でもない。

 

 大川小学校は現在、震災遺構として保存するべきか解体するべきかの議論が進んでいる。213日には公聴会が開かれ、12人の公述人が保存と解体の立場から意見を述べた。これについて娘さんを亡くした遺族で「小さな命の意味を考える会」を主催している元教員、佐藤敏郎さんはフェイスブックで「(保存か解体か)大切なことは、未来にとって有益かどうか」と訴えている。

2016216日)