コラムno.24                                                     学徒兵として招集、捕虜となってハワイに 鉄血勤皇隊隊員だった古堅実吉元衆議院議員が語る沖縄戦 (沖縄・辺野古ノート3)

今年6月23日は「この世の地獄を詰め込んだ」と米軍側からも言われている沖縄戦の組織的戦闘が終結して70年目となる。「鉄の暴風」と称される米軍の猛攻で、日本軍とともに多くの沖縄住民が犠牲となった。このことは歴史の出来事として認識されているが、そこで生き、死んだ人たちの声は本土にいるとなかなか伝わってこない。

 実は沖縄でも、70年前の出来事を継承するのは大変なようだ。そんな中、那覇市中心に活動している「命どぅ宝(ヌチドゥタカラ)を継承する会」主催の「沖縄の平和のために尽くされている人々に学ぶ学習会」に参加。沖縄師範学校在学中に沖縄戦を体験、捕虜となってハワイに送られた経験を持つ元衆議院議員、元沖縄立法院議員の古堅実吉(ふるげん・さねよし)さんから話を聞く機会を得た

 学度動員の話としては、何度も映画化された「ひめゆり部隊」が本土でもよく知られているが、沖縄戦当時14歳以上の学徒が全員招集され、ろくな装備も与えられないまま兵士として死んでいった事実は知らなかった。ましてや戦争捕虜となった15歳の少年がハワイまで送られ、1年以上も捕虜収容所で苦役についていたということは初耳だった。

 徴兵されてインドシナ半島一帯で兵役についていた義父は、「14、5歳の子供を兵士にするわけがない」と主張していたが、少年兵の事実を知って絶句した。それほど私たちは沖縄の事実を教えられずに今日まで来たといえる。

 

▽14歳以上の学徒を兵站に動員

 沖縄本島の北部・国頭村で生まれた古堅さんは教師を夢見て、1944年4月沖縄師範学校に入学した。沖縄で日本軍が本格的に配備されたのは、直前の3月22日。沖縄守備軍(32軍)が編成され、全国から約8万人の兵士が招集されて沖縄に駐屯した。それまでは事務方しかおらず、一度に大軍を見た古堅少年は「これだけ軍が整えられれば沖縄は安全」と思ったという。

 しかし44年10月10日、米軍は那覇市を中心に沖縄全域に延べ1400機による大規模無差別空爆を実施。翌45年3月には台湾攻略をせずに直接、沖縄侵攻作戦を開始した。沖縄本島上陸作戦直前の3月26日には、すぐ近くの慶良間諸島に上陸して制圧。日本軍は本島上陸に備えて、師範学校や中学、高等女学校などの生徒を戦場に動員する指示を発令した。師範学校の全員、中学校の3年以上は「鉄血勤皇隊」に、それ以下は「通信隊」として配備。女学校生徒は「ひめゆり学徒隊」とその他の「看護隊」に分かれて配備された。兵士として斬り込み隊に編入された生徒だけでなく、その他の生徒も皆軍隊でいう「兵站」任務だった。

 師範学校では3月31日鉄血勤皇隊が結成され、12軍直属として情報宣伝隊、斬り込み隊、野戦築城隊などに班分けされ、最下級生の古堅さんらは「自活隊」として首里城内の司令部で農産物の調達などの勤務についた。

 しかし31日の朝、首里城から海を見て愕然としたという。「水平線が米軍艦で埋まっていて、水平線が見えなかった。『袋のネズミ』だ、もう逃げ場がないと感じた」という。

 4月1日以降の米軍の沖縄本島上陸作戦で、那覇市内にも激しい艦砲射撃が続き、古堅さんら自活隊は首里城外に出ることもできず、地下壕内の発電設備の冷却水を運ぶ任務に。5月4日には一緒に冷却水を運んでいた同級生が砲撃に直撃され体の半分が飛び散って死亡した。5月20日には25人の特別編成隊が命じられ、爆雷をもって首里弁ヶ岳で戦車に飛び込み全滅した。

 首里城の32軍は包囲される直前、南方への撤退命令を出し、摩文仁目指して南下する。

 

▽死んだ母親にしがみつく乳飲み子

 古堅さんらの鉄血勤皇隊は摩文仁の崖にできたガマ(自然に出来た壕)の一つを見つけ陣取った。食べるものがなく、数人で近くの畑に調達に出かけたが、古堅さんが今でも忘れられない光景があるという。それは、死んでから数日経ってお腹がガスで膨れ上がった母親の胸に乳飲み子がしがみついて、乳を求めてバタバタしていた光景だ。「軍規がある上、実際に助けるのは不可能ということは分かっていたが、そのまま見捨てて壕に戻ったことで、なぜ助けられなかったかという罪悪感が残っている。今でも、沖縄戦というと最初に浮かんでくるのが、あの乳飲み子だ」という。兵士は戦争で住民を助けない、また助けられないという厳しい現実がそこにある。

 沖縄守備軍(32軍)の牛島満司令官、長勇参謀長らは6月23日、摩文仁の司令部で「北部へ突破せよ」とのゲリラ戦を指示して自決。日米両軍の組織的戦闘は集結したが、師範隊には直前の19日夜、沖縄師範学校の野田貞雄校長が配属将校とともに訪れ、最後の訓示で「死んではいけない。敵の第一線を突破し、背後の住民とともに生きなさい」と述べたという。

 軍国少年として死ぬことだけを考えていた古堅さんは、野田校長の言葉に「生きていてもいいんだ」と勇気づけられ、北方に向かう途中米軍に取り押さえられ捕虜となった。

 摩文仁の仮収容所から屋嘉収容所に移された時には数千人の兵士や学徒隊員らが収容されていた。米軍の資料によると23日までの捕虜は5213人、保護された住民は22万2309人という(2005年の琉球新報「沖縄戦特集」より)。戦争捕虜は職業軍人や本土からの召集兵だけではなかった。古堅さんらのような3月末に招集されたばかりの沖縄の学徒隊員が少なからず含まれていたことを、今回はじめて知った。

 また沖縄師範の野田校長と同じように、学徒隊の生徒に「生きよ」と指示した陸軍少佐もいたことが、多くの生徒が生還した「ふじ学徒隊」のドキュメンタリー映画で報じられている(15610日付け東京新聞)。

 

▽15歳で戦争捕虜としてハワイに

 屋嘉収容所にいた古堅さんらは7月3日、沖縄を出稿するセメント運搬船でハワイに送られた。6月23日の組織的な戦闘の終結後、一部の兵士が散発的に続けていた戦闘への掃討作戦は前日の2日に終了宣言が出たところだった。

 船倉に丸裸で閉じ込められ、約2週間かけてハワイの真珠湾に到着。ホノルル近くの捕虜収容所で厳しい監視のもと、様々な服役作業をやらされたという。この間の生活について、古堅さんは多くを語ろうとしなかったが、沖縄出身のハワイ在住の人達がこっそりと差し入れてくれたことが嬉しかったという。

 古堅さんが帰国したのは翌46年10月末。ハワイから日本の貨客船に乗って浦賀に向かい、浦賀から米軍のLST船(上陸用強襲艦)に乗り換えて中城の浜辺に降り立ったという。戦争に駆り出されてから1年8ヶ月ぶり。16歳になっていた。

 本土の住民が「戦争は終わった」と浮ついていたのと比べると、そのあまりの差に愕然とする。この格差は米国の統治下続いただけでなく、今も続いているといえる。

 しかし今年7月に86歳となる古堅さんは地獄のような沖縄戦を、45年だけの戦闘として捉えると間違うとみている。「沖縄戦は15年戦争の帰結であり、15年侵略戦争の位置づけまで遡って見直すべきだ」と指摘する。

 沖縄戦から70年立った今日、満州を支配した祖父・岸信介を信奉する安倍晋三という異様な政治家によって戦争法が強行採決されようとしており、軍靴の響きが近づいている。沖縄戦を省みることは、安倍晋三の「戦後レジームの脱却」とは全く違う地平で戦前を総括し直すことになるのではないだろうか。

(了)

15歳で鉄血勤王隊として学徒動員され、捕虜としてハワイに送られた経験を話す古堅実吉さん