コラム no.16  震災後、津波の動きや防潮堤の働きをきちんと分析したか? 宮古市田老地区と普代村から分かった違い

 何が何でも防潮堤を張り巡らせることで「安全安心」を訴えている宮城県の村井嘉浩知事は、ことあるごとに岩手県普代村の成功例を主張する。村井知事の主張に同調するマスコミも少なくない。普代村の成功例とはどんなものなのか、機会を得て見に行った。

 そこで分かったのは普代村の防潮堤(水門含む)はかなり特殊な例ということであり、気仙沼に建設しようとしている防潮堤や、既に岩沼市などに建設が進んでいる海岸防潮堤の参考にはならないと言わざるを得ない。「万里の長城」に例えられながら、脆くも崩壊した巨大防潮堤のあった宮古市田老地区(旧田老町)は普代村の南に位置しており、より震源域に近い。その上、普代村の集落と田老地区の標高の違いも被害の差になった可能性がある。

 今年4月発刊された「普代村東日本大震災記録誌」によると、人的被害(行方不明は1人いるが)や居住区の壊滅的な崩壊を免れたのは太田名部防潮堤と普代水門の2つによる。太田名部防潮堤は高さ15.5メートル、長さ155メートル。太田名部漁港の後ろにそびえ、県道などは防潮堤の後ろを走っている。東日本大震災の津波発生時、漁港で働いていた人たちは防潮堤の階段を駆け上った。津波は8.9メートルの高さまで上ったが、そこで止まり、後背地の住宅には押し寄せなかったという。

もう一つの人的被害を抑えた普代水門は普代川にかかり防潮堤と同じ高さ15.5メートル、長さ205メートル。普代川沿いにある普代小学校の前で津波を止め、村人の命を救ったとされている。しかし水門は河口にあるのではない。河口から300メートル内側に入り標高は10メートル。なおかつ津波は水門を駆け上り、越流した。水門での津波の高さは約24メートルと記録されている。

漁港の港湾部にある太田名部防潮堤での津波の高さは9.2メートルだったのに対し、河口から内陸に入った普代水門では24メートルと倍になったのは、地形の違いに加え、漁港には消波ブロックや堤防などがあり、津波が減衰したためとみられている。水門と同じ高さまで津波が来たら、多大な人的被害が出たに違いない。漁港で働いていた多数の人が防潮堤の上から津波が来るのを見ていたというのだから。

村の中心部は水門からさらに内陸に1キロほど湾曲して続く普代川上流の標高12メートル付近に立地しており、越流した津波は村中心部の手前で止まったという。水門によって大きな被害を免れた普代小学校も標高は15.7メートルにある。

水門ではさらに奇跡が起きた。同記録誌によると、久慈消防署普代分署は大津波警報発令を受け遠隔操作で普代水門を閉鎖しようとしたが、余震でモーター保護のためのリミッターが作動、県道側のゲートが閉まらなくなった。このため水門操作の復旧を行おうと消防署員が現場に駆けつけ、操作板を開けてリミッターを解除したところ、津波直撃の直前に復旧。ゲートは閉まったという。その直後、津波が防潮林をなぎ倒しながら普代川を逆流し、消防署員の乗ったタンク車は津波に追いかけられながら間一髪で逃れたと記載されている。水門脇を走る県道閉鎖の誘導のために消防団員が1人いたが、モニターで津波の様子を見た分署の消防署員が水門にいる消防団員に緊急放送、消防団員は必死に逃げ出し九死に一生を得たという。この道路は結局封鎖できなかったが、道路を走る波より、水門の上を駆け上った波の勢いの方が強かったという。うまく水門が閉じなかったら、どうなっていたか分からない。

もう一つ、普代村が人的被害を避けられたのは、防災無線が不通になった段階で消防車がサイレンを鳴らして高台への避難を呼びかけるなど、避難を徹底したことだろう。他の町村よりも、津波への備えがしっかりしていたといえる。

 一方の田老地区。自慢の巨大防潮堤(高さ10メートル、総延長約2400メートル)が東日本大震災時の津波で崩壊、多数の死者、行方不明者を出した。約580メートルは一部の土台や水門を残し跡形もなくなってしまった。被災後、防潮堤に頼り海が見えず津波が押し寄せて来たことに気づかなかった、あるいは気づくのが遅くなったことが被害拡大の原因とされたはずだった。

壊れた堤の後ろで防潮堤のかさ上げ工事(宮古市田老地区) 残されたままの水門?の残骸(田老地区)

それにもかかわらず、壊れた防潮堤のかさ上げ工事(4.7メートル)が現在進められている。ますます海が見えなくなるのは間違いない。かさ上げは普代村と同じ高さにすれば大丈夫ということなのだろうか。

岩手県最大といわれる約400世帯の仮設住宅が田老地区の「グリーンピア三陸みなと」の構内にある。グリーンピアのホテル内には診療所と薬局、施設の一角には銀行の出張所などがある。そこには「田老地区の将来」というポスターが貼られてあり、防潮堤は震災前と同じように街を囲んでいる。

住民は納得したのだろうか。河北新報今年6月の社説によると、どうも「岩手県の説明会は職員が膨大な資料を駆け足で説明し、住民が熟慮する時間を与えないまま、その場で拍手を求められた」らしい。

振り返ると次のような社説もあった。

「田老地区の再建には他の案もあった。大防潮堤に頼り過ぎて被害を大きくした可能を考え、無事に残った家を含めて集落ごと別の周知の高台に引っ越したいとの願いだった。無事な住宅には国費を出せないという行政の壁で実らなかった」(2013310日付朝日新聞)

 その数日前、201334日の朝日新聞には「宮古市が旧田老町の被災者840戸にアンケートしたところ、48%が『他の場所』に移転を希望。田老地区に残るという人は45%だった。残る7%は未定」という記事もある。約5メートルもかさ上げしていても、半数の被災者は土地を離れてしまう恐れがある。

また、宮古市は震災前と同じ形状のままで、防潮堤を単にかさ上げしているようにみえるが、津波の圧力を計算し直しているのだろうかという疑問もわく。土木学会などでも、このような防潮堤にもろ手を挙げて賛成を示している声が聞こえてこない。むしろ、健全性への疑問も出ているという。

 

旧田老町は2006年に宮古市と合併した。その宮古市では鍬ケ崎地区でも防潮堤計画が持ち上がっている。

(岩手県)の計画に対して、住民有志の「鍬ゲ崎の防潮堤を考える会・準備会」が市議会に提出した「十分な説明を求める」とする陳情書が今年925日採択されていたが、地元紙の報道によると11月になって20人の住民代表に防潮堤計画を説明したらしい。当然ながら賛成、反対の意見が出たが、市は説明終了として建設を開始するという。河北新報が先の社説で指摘した手法と同じではないかと推察される。

 

ちなみに一連の防潮堤計画の中で最も高い14.7メートルの防潮堤が啓作されている宮城県気仙沼市小泉地区は、河口から1.5キロ上流まで標高1.5メートルと平板で、内陸の津谷地区でも標高8メートルに過ぎないという。普代村に学ぶというが、普代水門が設けられているのは河口から300メートルの内陸部で、海岸線ではない。行政は、こうした違いを考慮に入れているのだろうか。普代村や田老地区の現状をみるにつけ、大災害をもたらした津波をきちんと分析していないのではないかとの疑問がわく。

(了)

普代水門(海側から見たところ、太田名部防潮堤より長い)

右は太田名部防潮堤