啄木鳥no.25「ナガサキへの原爆投下は必要だったのか」   2度の核投下への疑問から、開発を離れた米国の科学者たち

米国最大の歓楽街ラスベガスから車でわずか1時間強の砂漠に、米エネルギー省のネバダ核兵器実験場がある。1990年半ばまでは地下核実験を、97年からは「臨界前核実験」といわれる実験を続けている施設だ。

 1990年代の初頭、この施設のゲートまで行ったことがある。「立ち入り禁止。侵入者は逮捕される。車を止めてもいけない」と大書された看板がゲート前にあるだけで、施設の名前は一切書かれていない。何度か見学を申請したが、全く応じてもらえなかった。

 

 世界最初の原爆が組み立てられたのは、米国南西部のニューメキシコ州にあるロスアラモス。現在はエネルギー省ロスアラモス研究所と称されている。一方、核分裂に必要な高濃縮ウランはテネシー州のオークリッジ研究所で抽出されていた。2つの研究所は一部、見学できる。オークリッジの見学施設では、日本と同じように「見ザル、言ワザル、聞カザル」のポスターも飾ってあった。第2次大戦中、2つの施設は地図上、ただの荒れ地としか記載されておらず、厳重な秘密保持とスパイ対策がなされていたという。今でも、施設の周囲や敷地内では特殊装備の警官が乗ったパトロールカーが絶えず巡回している。

 

▽熱狂、続いて冷や水

 広島、長崎に原爆を落とし、数十万人もの命を奪った原爆について、開発に参加した科学者はどんな気持ちでいたのだろう。そう思って、現地を訪れるとともに、「終末時計」で有名な月刊誌「ザ・ブレティン・オブ・ジ・アトミック・サイエンティスト」(ブレティン)を発行している全米核科学教育財団の科学者らに会って話を聞いたことがある。

 

 原爆開発は1942年8月「マンハッタン計画」と名付けられた史上最大の極秘開発作戦でスタートした。ノーベル賞受賞者のアルバート・アインシュタイン博士までかり出して多数の物理学者が核兵器開発に動員された。

 24時間体制で進められてきた原爆開発は、1945年に3発の兵器として結実した。最初の1発は45年7月16日午前5時過ぎ、ニューメキシコ州南部の砂漠地帯アラモゴールドの一角で爆発した。

 

 「成功のニュースがロスアラモスに伝わると、町中の人々が飛び出してきた。抱き合ったり、ダンスを踊ったり、朝からシャンパンを開けて乾杯したり、皆が異常なほどの興奮状態となった」

 軍事エンジニアの夫に付き添ってロスアラモスで暮らしたエレノア・ジェッティは、こう書き残している。熱狂は8月6日、広島に最初の投下まで続いたという。

 

 「しかし、長崎への投下のニュースで冷や水を浴びせられた。なぜ、という疑問は私だけの気分ではなかった」と、ドイツから亡命して核兵器開発の先頭に立っていたレオ・シラードに誘われてマンハッタン計画に参加した物理学者バーナード・フェルトは述懐している。

 

 戦争が終わった後、米国の科学者たちは二つに分かれた。

 「広島、長崎の惨状はショックだった。それまでは皆、核の本当の危険性が分かっていなかった。特に長崎への投下が必要だったのか、参加していた科学者の間で疑問が湧き政府の核兵器開発プロジェクトから大半が離れた」とフェルトは書き残している(一方のシラードはその後も核抑止力論者として活動した)。

 

 ブレティンは45年12月、アインシュタイン博士やロバート・オッペンハイマー博士らが呼びかけて創刊された。マンハッタン計画に参加し、ブレティンの刊行に携わってきたジョン・シンプソン博士は1991年、取材に対して「原爆の被害があれほどとは思ってもみなかった。被害を知った直後から、人類に破局をもたらす核兵器の危険性を一般の人に知らせなければならないと思った」と創刊の動機を話してくれた。

 

▽問われる日本の科学者

 一方「唯一の被爆国」をうたう日本の安倍晋三首相。今年8月6日、広島での原爆祈念式典では「非核三原則」という言葉をあいさつから抜いた。7日の衆院予算委員会で追及されると、「国是」を連発し9日の長崎原爆祈念式典のあいさつでは復活させたが、聞いている人々にかえって「いかにもおざなり」という印象を与える結果となった。

 

 安倍首相と面会した広島の被爆者代表、長崎の式典で宣言を読み上げた長崎の被爆者代表はそれぞれ安保法制(戦争法案)の廃案を訴えた。しかし安倍首相は聞く耳を持たないようだ。安倍首相だけではない。戦争法の後から来る兵器の軍産学共同開発に対して、かなりの理系研究者が疑問を持っていないように見受けられる。6月ごろから大学教職員の安保法制反対の動きが出てきたが、参画しているのは圧倒的に人文、社会学系の研究者だ。

 

 田上長崎市長は9日の平和宣言の中で、第61回パグウォッシュ会議世界大会を今年11月長崎市で開催すると表明した。パグウォッシュ会議は第2次大戦直後、バートランド・ラッセル卿とアインシュタイン博士の呼びかけで始まったもので、日本からもノーベル賞受賞者の湯川秀樹、朝永振一郎両博士をはじめ多くの科学者が参加した。

 

 湯川・朝永両博士は1975年9月、「核抑止を超えて」と題する宣言(湯川・朝永宣言)を発表した。そこでは「核軍縮の第一歩として各国政府が核兵器の使用と、核兵器による威嚇を永久かつ無条件に放棄することを要求する」とうたっている。

 

 翻って今日、政府は新安保法制では「法理上は核兵器の運搬は可能」とする見解をまとめている。海外での運搬と国内での開発は別だと言っても「非核三原則」に抵触してくることは間違いない。パグウォッシュ2015には外務省、文部科学省とならんで日本物理学会も後援団体に入っている。今後、核開発に日本の物理学者はどういう態度を取るのか。湯川、朝永両博士に学ぶのか否か。問われてくることは間違いない。

2015年8月11日)